***

その少年に出会ったのは、ある雨の日だった。
大学から帰る際いつも通る細い路地。その真ん中で、傘もささずにじっと佇んでいた。
真っ黒い大きな犬を傍らに従えて。見慣れないへんてこな紺の服を着ていて。

……こんなことを言うと、いつも友達には笑われるのだけれど。私には「霊感」があった。

少年に近付いた瞬間気付いたのだ。冷たい雨に打たれているのにも関わらず、その髪も、その服も、そして黒い犬の毛並みさえ何ひとつ濡れていないことに。
それでも私は気持ちを抑えられなかった。その小さな背中から「哀愁」のようなものを感じ取っていたのかもしれない。
気が付いたら、腰をかがめ少年の頭上に傘を差し出していた。

「……こんにちは。大きなワンちゃんだね」

ぎょっとして振り返った少年の顔を、私は忘れることはないだろう。



雨足が強くなった窓の外を少年が眉をひそめて見つめていた。灯りのついた室内がどこか薄暗く感じるのは、一重にこの耳が痛くなるほどの静寂のせいだろう。
ガチャリ、と扉の開く音に小さな肩が跳ね上がった。楽な長ズボンとTシャツに身を包んだ女性が、柔和な笑みを浮かべて少年の隣へと歩みを進める。

「はあ、すっかり濡れちゃった。温かいお茶……を出しても、キミは飲めないか」

怯えた瞳で見つめてくる少年とその少年を守るように身を屈める黒い犬を一瞥し、女性はふふっと笑みをこぼす。

不思議な人だと少年は感じていた。長い黒髪に整った顔立ち。柔らかく細められた瞳に長いまつげの影が落ちる。

「私は多香菜。……キミは?」
「……ユズル」
「そっちのワンちゃんは?」

多香菜が視線を移すと黒い犬はぐるると小さく唸る。その声に促されるように、少年が「まろ」とだけ答えた。
ぽんっと両手を合わせて多香菜がやわらかい表情を浮かべる。

「ユズルくんに、まろくんね」

そう言ってまたふふ、と笑う。その屈託のない笑顔に、ユズルは困惑したように視線を落とした。

「ユズルくんたちは、この辺の地縛霊……って訳でもなさそうだね。初めて見たもの。どこから来たの?」
「……ええと……」

少年は顔を伏せ、言葉を探すように押し黙り……小さく首を横に振る。

「……ど、どこか…遠いところ」
「そっか。あちこち旅する浮遊霊さんかな?」
「……そんな感じ」
「じゃあ、またどこか遠いところへ行くの?」

しばし考え、ユズルは再び首を否定の形に振った。「しばらくはここにいる」と言葉を付け足すと多香菜は安心したような笑みを浮かべ、「そっかあ」と何度も何度もうなずいた。

「じゃあ、また会えるね。……ふふ、不思議なお友達が出来て嬉しいなあ」

楽しそうに多香菜が笑う。少年はただ、戸惑いながら目を伏せることしか出来なかった。

***

「変な女だったな」

石畳の渡り廊下を歩きながらまろがぼそりと呟く。目の前に続く乳白色を見つめてユズルもそれに同意した。
人間と話をしたのは初めてだった。その初めての相手が、幽霊と認識した子どもと友達になって喜ぶような変人だったなど誰が予測できただろう。

「ヘン……だけど……」
「なんだ?」
「……また会いたい」

その言葉にまろが足を止める。見上げた少年の表情はいつもより少し穏やかだった。
くくく、と押し殺したような笑いをあげ、口を開く。

「ユズルも相当な変人だからな。あの女と気が合うかもしれん」
「なんだよ、それ……」

ムッとした表情でユズルが口を尖らせる。本当のことだろう、とまろが追い打ちをかけるとその頬がぷくりと膨れた。

(こうして見ると普通の子どもなんだがな……)

まろの胸の中にわだかまりが残る。出会った当初と比べれば、ユズルは大分まろに心を開いているようだ。今まで見せなかった様々な表情も徐々に見せ始めている。
それでも、まろの中に残るわだかまりはどんどんと大きくなるばかりだった。

***

黒い半月が宙を切る。その刃は男の体をすり抜け、同時に青い炎がすうと浮かんだ。
どさりと音を立てて崩れ落ちる体。その抜け殻をまだ幼さの残る暗い瞳が睨んでいた。

「……じゃあ、これよろしく」

ユズルから青い炎を受け取り、まろが大きな尻尾をなびかせて走りだした。黒い体がぐにゃりと歪んだ空間の中に飲み込まれ、やがて見えなくなる。

「一人前の死神」として働き始めもうどれほど経つのだろうか。次々と指名されるターゲットを監視し、鎌を振り下ろす毎日。

(イヤになるなあ……)

ふう、と小さく息を吐いて力なく歩き出す。宛てもなく歩き続け、そのまま人間界に身を潜めてしまいたい。そんな陰鬱とした気分だった。

「……あ」

前方から見えてきた人物にユズルは思わず声をあげた。宛ても目的もなく歩いていたはずが、いつの間にかここへ向かっていたらしい。
黒髪の女性はユズルに気付くと笑顔で手を振り、はっとした表情で辺りを見渡す。当然だ。ユズルの姿は他の人間には見えていないのだから。

辺りに目撃者がいないのを確認すると、その女性は再び笑顔をたたえてユズルのもとへ足早に駆け寄った。

「こんにちは、ユズルくん。今日はまろくんは一緒じゃないのね」

あの日から時間があればユズルの足は自然にここへと向かっていた。初めて言葉を交わした人間。ヘンテコな友達のもとへ。

「おいで、ちょっとお話しようよ」

無邪気に笑う彼女の言葉にユズルもためらいなくうなずく。穏やかに笑う多香菜の顔を見るたび、日々の任務で荒んだ心が癒されるような感覚だった。

(……やっぱり)

浮かれ足で歩く多香菜の背中を見上げる。黒い髪がさらさらと揺れ、西日を浴びて輝いている。

(……僕は死神には向いていない)

***

硬い爪が乳白色を蹴りあげるたび軽やかな音が鳴る。やわらかな尾を揺らし、まろは長く続く廊下の先を見すえた。

任務が終わったと言うのにユズルはまだ帰ってきてはいない。
その行き先の予想はついていた。金色の瞳が物憂げに細められる。

「まろーっ!!」

不意に背後から聞こえた元気な声に黒い鼻先をゆっくりと向ける。丁度任務を終えたらしい桜石と小梅の姿がそこにあった。
ぱたぱたと元気な足音をたてて桜石が駆け寄る。まろを一瞥し、辺りをキョロキョロと見渡して小首を傾げた。

「ユズルは一緒じゃないの? 任務終わったんでしょ?」
「ああ。あいつなら今頃人間界をほっつき歩いているんじゃないか。いつもそうだからな」
「もー! どーりで最近姿見せないと思った! せっかく久しぶりに会えると思ったのになあ……」

頬を膨らませて桜石が顔を伏せる。その足元で小梅がキンキンと甲高い声をあげた。

「ユズルのせいで最近桜石までジメジメなのよ! アンタ、アイツのパートナーならなんとかしなさいよね!」
「べ、別にあたしはジメジメなんかしてないもん!」
「いーえしてるのよ! アイツのジメジメキノコ菌が桜石にまでうつっちゃったんだわ!」

目の前で繰り広げられる応酬にまろは思わず顔を緩めた。
女三人で姦しいとはよく言うが、この二人の騒がしさには女三人でも四人でも敵うまい。

「本当に元気だなお前たちは。そのやかましさ、少しユズルにも分けてやりたいぞ」
「アイツがやかましくなったらそれはそれで気味が悪いのよ」
「えーあたしは見てみたいなあ。てゆーかユズルが元気になるんなら何でもいいや。……一度でいいから、ユズルが笑ってるとこ見てみたいもん」

目を伏せて桜石が寂しそうな顔を見せる。驚きを隠しきれない表情でまろが口を開いた。

「……見たことないのか? お前、ユズルと仲が良いんだろう?」
「うん。ちっちゃい時から一緒に遊んでる。でも、昔っからユズルはあんな調子。元気に笑って走りまわってる姿なんか一回も見たことないよ」
「生まれつきのジメジメ男なのね。そんなの救いようがないのよ」

小梅が非難するような声をあげる。それをなだめる桜石はまるで小さな妹をもつ姉のようだった。

「それじゃ、あたしたちはそろそろ行くね。心配してるんだからたまには顔みせろーって、ユズルに言っといて」
「わかった。伝えておこう」

そう答えると桜石も笑顔でうなずいた。よろしくねー!と叫びながら、小梅をつれてパタパタと騒がしく廊下の先へと走り去る。

しかし、それからユズルが桜石の前に姿を見せることはなく二日経ち、さらに五日が経った。

***

大きなお腹をゆさゆさと揺らして一人の少年が石造りの建物から姿を現した。一仕事終えたのだろう、ぐぐっと伸ばした少年の肩で同じようにまるまると太ったネズミが疲れた顔を浮かべていた。
小さな鼻をヒクヒクと動かして少年に何か耳打ちをする。チチチ、と小さな声が少年の耳をくすぐった。

「なんだよお。もうお腹空いたのか? ちょっとは俺を見習ってセッセイしろよなー」

チチ、とネズミが抗議の声をあげる。ぽつぽつと言い争いながら歩を進める少年の視界に一人の少女の姿が映った。
桃色の髪がさらさらと揺れ、その顔には憂いを帯びている。
訝しげに眉をひそめ少年はゆっくりと少女に歩み寄った。

「桜ちゃん? どうしたんだよ、元気ないなー」
「……バンタ」

ゆっくりと桜石が顔をあげる。いつもの快活な彼女からは想像もつかない、その暗く沈んだ表情にバンタは戸惑いを隠せないでいた。
黙りこんでいる少女の足元で甲高い声があがる。

「ちょっとまんまる男! アンタ、ジメジメ男がどこにいるか知らない!?」
「うわ、出たようるさいの……」
「なによ! アタシがいたらいけないっていうの!?」

小梅が全身の毛を逆立てる。まあまあ、となだめて抱き上げる桜石の腕の中にその小さな体がすっぽりと収まった。ふわふわの毛を撫でながら少女が首を傾げる。

「ねえ、バンタは最近ユズルに会った?」
「え? ……そういえば、最近アイツの顔見てないなあ。桜ちゃんは? いつも一緒だったじゃん」
「うん……。いつも、一緒……だったんだけど……」

桜石の顔に再び暗い影が落ちる。はあ、と小さく溜息を吐く彼女を見てバンタも状況を察したようだ。
言葉を探すように目を泳がせ、やがて重い溜息と共にその視線は地面へと向けられる。

ジメジメとした空気に小梅が不機嫌そうに毛を膨らませた、その瞬間だった。

「……あれ?」

二人の耳に飛び込んできたのはどこか懐かしく感じる少年の声だった。
目を見開いて桜石とバンタが声のした方を見やる。栗色の髪をもつ少年が、きょとんとした表情で小首を傾げていた。

「桜石もバンタも……。なにしてるの? こんなところで」

「ユズル!?」

口を揃えて二人が声の主を呼ぶ。ゆっくりと二人に近付くユズルを制するように甲高い怒号があがった。

「ちょっとおおおーっ!!」

その場にいた全員の肩が跳ね上がった。その反動で転げ落ちたネズミが間一髪バンタの服にしがみつき、チチチと悲痛な声をあげる。
桜石の腕の中から勢いよく飛び出したピンクの毛玉が、ユズルの顔面に華麗な体当たりをお見舞いする。思わずよろめいた少年の耳にキンキンとした声が飛び込んできた。

「今までどこほっつき歩いていたのよこのジメジメキノコ! 桜石がどんだけ心配してたかわかってんの!?」
「ちょ、ちょっと、小梅!」

慌てて桜石が小梅を抱き上げる。両脇を持ち上げられ、バタバタともがき暴れながら小梅は全身の毛を逆立てた。

「アンタがいない間、桜石はずっとジメジメだったのよ! なんとか言いなさいよ!」
「……ご、ごめん……?」

状況をまったく飲み込めていない様子のユズルがとりあえずの謝罪を口にする。興奮冷めやらぬ様子の荒い鼻息が少年の頬を撫でた。

「でもよお。最近本当にお前と会わなかったよな。どこ行ってたんだ?」
「ちょっと人間界に……。でも、任務はちゃんとこなしてたよ?」
「もう! そういうことじゃなくて!」

斜め上の事を口走るユズルに桜石の容赦ない突っ込みがくだる。訝しげに眉をひそめる友人は根本的な話をまだ理解できていない様子だ。

「最近全然顔見せないから、さみし……じゃなくて! みんな心配してたんじゃん! 任務も忙しくなってきたし、人間界に行くのもユズルの自由だけどさ……。たまには、あたし達のことも思い出してよ」
「……ごめん、桜石」

ようやく状況が飲み込めたらしいユズルが目を伏せる。口を尖らせる桜石の隣で、バンタが両手を腰にあて丸い頬を更に丸く膨らませた。

「俺も、心配したんだぞ」
「ごめん、バンタ。……小梅も」
「え? ア、アタシは別に! 違うのよ! 桜石が元気なかったから、仕方なく心配してあげただけなのよ!」

あたふたと身をよじらせながら小梅が早口で否定する。腕の中でしどろもどろになっているパートナーを見やり、桜石が小さく吹き出した。
なによ!と声を荒げた小梅の口から小さなキバが覗く。

「えへへ。じゃあ心配かけたバツとして、今日はあたし達にトコトン付き合ってもらうよ! ユズル!」
「……え? どこ行くの?」
「どこでも良いよ! みんなで遊べるところなら!」

満面の笑みを浮かべ、桜石がワンピースをひるがえして駆けだす。まるでダンスを踊るかのような軽やかさで石畳を蹴りあげるその後ろ姿を、残された二人は呆然と見つめていた。

「ユズルー! バンター! 早く早くー!」

振りかえって友を呼ぶ桜石はすっかり今までの元気を取り戻したようだ。行こうぜ!と無邪気な笑顔を浮かべてバンタがユズルの手を引いて走りだす。

元気な足音が三つ、廊下の奥へと消えてゆく。

その後ろ姿を黒い獣が目を細めて見つめていた。

***

道路の両脇に立ち並ぶ色とりどりの建物。閑静な住宅街を抜けた先には、小さな公園が子どもたちを待ちかまえていた。
物珍しそうにぐるぐると辺りを見渡す少女の顔は満面の笑みに満ちている。

「ここがいつもユズルが来てる場所なんだね。ねえねえ、ここにはどんな面白いものがあるの?」
「……面白いもの……」

キラキラとした笑顔を向けられユズルは言葉を詰まらせる。その隣でバンタが普通の住宅街じゃないかと不満げな声をあげた。

バンタの言う通りなのだ。ここは何の変哲もない、ただの住宅街。
そこに頻繁に入り浸っている友人の秘密を暴くため、こうしてみんなでやってきているのである。

「だって、なんかあるからユズルはいつもここに来てるんでしょ?」

そう言って小首を傾げる桜石は、この住宅街にユズルの心を鷲掴みにするほどの「面白いなにか」があると信じて疑っていない様子だ。
にぎやかな通りから離れた静かな街。桜石の足元で小梅が「ジメジメ、ジメジメ」と顔をしかめて呪詛のように呟いている。

(困ったなあ……)

眉尻を下げてユズルが小さく息を吐く。桜石が期待しているような面白いものなど何もないのだ。
あるとしたら――……

「あれ?ユズルくん?」

背後から聞こえてきた声に三人は同時に顔を向けた。黒髪の女性は辺りをキョロキョロと見渡し、誰もいないことを確認すると足早に三人に近寄る。

「わあ、今日はお友達がたくさんいるのね」
「う、うん……」

控えめにうなずくユズルの両脇で、桜石とバンタがじりじりと後ずさる。

「……なに? あたし達が見えてるの?」
「お、おい、ユズル。お前、ニンゲンと知り合いなのかあ?」

口ぐちに怯えた声を上げる二人に向き直り、ユズルはうなずく代わりにゆっくりと目を伏せた。
ふふ、とやわらかく笑い、女性はゆっくりと屈んで三人と目線を合わせる。

「はじめまして。多香菜といいます。よろしくね」

夕刻の日射しを受けて黒い髪がさらさらと光る。眉をひそめて多香菜を見やる二人の姿が、いつかの自分と重なってユズルは咄嗟に口を開いていた。

「大丈夫だよ。多香菜は、悪い人じゃない。……僕の、友達だから」
「ホントかよお、ユズル?」

恐る恐る歩みを進め、バンタがユズルの隣に並ぶ。桜石は未だに訝しげな表情で多香菜をじっと睨んでいた。

「ここじゃ何だから、公園にでも行こっか。……ええと」

腰を伸ばして多香菜が少年少女を交互に見やる。名前を尋ねられているのだと気付きバンタが元気良く手をあげる。その肩の上で、太ったネズミも同じように前足を上げチチッと鳴いた。

「俺はバンタ!よろしくなあ」
「アタシは小梅なのよ!」

柔和な笑みを浮かべ、「バンタくんと小梅ちゃんね」と多香菜が復唱する。そして残った桜石に全員の視線が集まった。

「キミは?」

「……桜石」

ふいと目を逸らしぶっきらぼうに答える、素敵な名前だね、と多香菜が微笑むと目を逸らしたままムッとしたように眉をひそめた。

「じゃあ、行こう」

そうみんなを促し先手をきって多香菜が歩き出す。わいわいとそれに続くバンタと小梅を横目で見ながら、桜石はそこから動けないでいた。

いままで感じたことのないどす黒い「なにか」が胸の中で渦巻く。

落ち着いた雰囲気。さらさらと流れる黒髪。大人びた顔。綺麗な人だと桜石も感じていた。

バンタや小梅、ユズルでさえもすんなりと心を開いてしまうその包容力。優しい笑顔。良い人だと頭ではわかっていた。

それなのに何故だろう。
自分でも認めたくないこの醜い感情はどこから湧いてくるのだろう。

口を引き結び、地面を睨む桜石の眼前に小さな手が差し伸べられる。

「……桜石。行こう?」

見上げた視界に映るユズルは、滅多に見せないような穏やかな表情を浮かべていた。
複雑な気持ちを抱きながらその手をとる。

そのままユズルに手を引かれて歩き出す。
先を歩いて手を引くのは、いつも自分の役割だったのに。

胸がギリギリと締め付けられ、桜石の目に熱いものが滲んだ。

***

すっかり日の沈んだ空に乳白色の建物が映える。集落のように広がった石造りのコテージの間をぬって三人の子どもが足並みを揃えて歩いていた。

「それにしても、ヘンな人だったな。あんな人間もいるんだなあ」

ニコニコと笑みを浮かべているバンタの口調は少し興奮気味だ。ヘンテコ人間なのよと同意した小梅も、どうやら多香菜のことは気に入ったようだった。

適当な相槌をうちながらユズルがその隣を歩く。桜石は未だに浮かない顔で黙り込んでいた。

「じゃ、俺はここで。またな、ユズル。桜ちゃん」

大手を振ってバンタが列から外れる。「またね」と手を振り返し、ユズルはその背中を見送った。
続いて小梅がユズルと桜石の顔を交互に見やる。

「それじゃあ、アタシも帰る前にちょっと仕事場に寄って行くのよ。ユズル、ちゃんと桜石を送り届けるのよ!」
「わかってるよ」

満足そうに目を細めた小梅は飛ぶような軽やかさで闇の中へと消えてゆく。
残された二人を静寂が包む。行こう、とユズルが促すと、小さくうなずいて桜石も歩き出した。

「……ねえ、ユズル」

並んで歩きながら桜石がぽつりと口を開く。「ん?」と声をあげてユズルは隣を見やった。

「……ユズルは、あの人に会うために、人間界に行ってたの?」

俯いたまま少女が続ける。しばしの静寂のあと、「うん」と肯定の声が聞こえた。
桜石の小さな胸が再びギリギリと悲鳴をあげる。思わず足を止めた彼女を、ユズルは眉をひそめて見つめていた。

「ユズルは、あたしといるより、あの人といる方が楽しいの?」
「なんで? そんなことないよ」
「……だって」

ワンピースの裾を握りしめ桜石が肩を震わせる。大きな瞳から透明が雫がぽろぽろと零れた。

「……あの人は、あたしに無いもの、全部持ってるんだもん……」
「桜石?」

今まで涙など見せたことのなかった少女の泣き顔に、ユズルはただ動揺を隠せないでいた。
顔を伏せ、両手で涙を拭いながら、嗚咽の混じった声で桜石が呟く。

「……嫌、なの……。わかんないの……」
「え……?」

ユズルが問い返すと桜石はぶんぶんと首を横に振る。こみ上げる感情に彼女自信も混乱しているようだ。

ユズルが自分の手を引いて行くほど前向きになったこと。それ自体は桜石もずっと望んでいたことだった。
しかし、彼をそこまで変えるほどの影響を与えたのは自分ではない。

流れる黒髪。穏やかな微笑み。すらりと高い背。落ち着いた口調。
全てが自分と正反対の女性に、彼は惹かれたのだ。

「……ユズルが、あの人と仲良くしてるの、嫌だよ……。なんでかわからないけど、嫌なの!」
「…………」

かける言葉も返す言葉も見当たらず、ユズルは静かに目を伏せた。どうしたら良いのかわからずに少年の思考回路も混乱の一途を辿っている。
声を押し殺し、少女はただ泣きじゃくっている。ユズルに出来ることは一つだけだった。

「……帰ろう、桜石」

涙に濡れたその手を取る。自分が足を止めた時、桜石がいつも手を引いてくれたように。

しゃくり上げながら桜石も小さくうなずく。歩幅を会わせて、二人はゆっくりと歩き出した。

そのコテージの入り口はピンク色のカーテンで塞がれていた。どちらからともなくゆっくりと足を止める。
繋いでいた手を離すと桜石の腕は力なく垂れ下がった。涙は止まったものの、その顔は未だ憂いを帯びたままだ。

「……明日も、あの人のところに行くの……?」
「……わからない」

桜石の問いに、ユズルは力なく首を横に振った。うつむいたまま桜石が続ける。

「……もう、あの人のところに行かないでって言ったら……。ユズルは、怒る? あたしのこと……嫌いになる?」

最低な質問だと自分でも思う。それでも止められなかった。
困ったようにユズルが眉をひそめる。続いて口から紡がれた言葉は、肯定でも否定でもなかった。

「……桜石は、多香菜のこと嫌いなの?」
「嫌いじゃ……ない、けど……」

綺麗な人。優しい人。良い人。誰からも好かれるような人間。
嫌いな点など見当たらなかった。しかし、そんな所が嫌いなのかもしれない。

頭と心が噛み合わず、桜石の胸の中はぐちゃぐちゃだった。

「……あたし、怖いよ。ユズルも、小梅も、バンタも、みんなあの人の所に行って……。あたしだけ、一人ぼっちで置いて行かれるんじゃないかって……」
「桜石……」

彼女の胸の中に渦巻いているものを察し、ユズルは納得したような声を漏らした。

幼いころから桜石は一人ぼっちになるのを恐れていた。かくれんぼをして遊んでいても、数分探して見つからないと不安になって泣きだしてしまうのだ。
そういう寂しがり屋なところは、昔から全然変わっていなかった。

「僕も、バンタも、小梅も、桜石のこと大好きだよ。絶対に一人ぼっちになんかしないし、桜石のこと置いて行ったりしない」
「……本当?」
「安心して」

そう言ってユズルは微かに口角を上げる。目尻に浮かんだ雫を拭い、ようやく少女の顔にも笑顔が戻った。

やさしいひと【中編】

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