***
「……旅行?」
小首をかしげたユズルに、多香菜は満面の笑みを返す。
「大学の友達と2泊3日の温泉旅行に行くことにしたの。お互い、就職先も決まったからそのお祝いでね」
「あたし知ってる! 温泉って、おっきいお風呂のことでしょ? あたしも行きたいなあ」
「行ったって、俺たちは入れないだろお」
一人暮らしのマンションの一室は今日もにぎやかな声で満たされている。気持ち良さそうにラグマットの上で寝そべるまろの尻尾には、先程からピンク色の毛玉がじゃれついて離れない。
穏やかな休日の午後。点きっぱなしのテレビからは、どこそこで強盗事件が起きただの、交通事故が多発しているだの、およそ自分達とは関係のないニュースが流れている。
誰もその内容には目もくれず、淡々としたニュースキャスターの声は風変わりなBGMとして皆の耳を通り過ぎてゆく。
「ふふ。お土産、何がいいかな?」
「温泉まんじゅう!」
「もう。それ貰っても、あたしたちは食べれないでしょ?」
呆れたような口調で桜石が窘める。埒の明かない様子の二人を見やり多香菜がくすくすと笑い声をあげた。
そしてそのまま、視線はユズルへと向けられる。
「ユズルくんは? お土産、何が欲しい?」
「え? ……えっと」
小さく唸りながらユズルはしばらく考え込み、やがて首を横に振った。
「……いらない。そのかわり、旅行のお話いっぱい聞かせて」
「土産話ってやつかあ。ふふ、そんなので良ければいくらでも」
多香菜が柔和な笑みを浮かべる。その笑顔を見るたび、胸の中に何か温かいものが流れ込んでくるような感覚にユズルの頬が熱を持った。
***
乳白色の石畳を三人並んで歩く。二人の獣が尻尾を揺らしながらその後に続く。
任務を終え、三人で多香菜のもとへ遊びに行くのは最早恒例のようになっていた。数日おきに顔を見せる子どもたちを多香菜はいつも変わらぬ笑みで迎え入れる。
「それにしても、桜ちゃん大分多香菜さんと打ち解けたよなあ。初めて会った日とかすっごい怖かったぞ」
「あ、あれは……! ってゆーか、忘れてよそんなこと!」
頬を赤くして桜石が声を荒げる。その隣でふふ、と小さな声があがった。
「ねえ、バンタ。桜石ったら、あの後ね……」
「ちょっと!! ダメダメ絶対言わないで!」
ぎゃあぎゃあと揉み合いになりながら三人の子どもが歩を進める。その様子を見守る黒い獣は安堵の色を浮かべて目を細めていた。
「なーんか、ジメジメ男ってば最近あんまりジメジメしなくなったのね」
「ああ。……なんだか不満そうだな?」
「だって、桜石ってばいつも口を開けばジメジメ男のことばっかりなのよ! もともとそうだったけど、アイツがジメジメしなくなってからもっともっとヒドイのよ!」
「……ほう」
興味深そうにまろが小梅を見やる。口を尖らせ、小梅はその大きな瞳を桜石に向けた。
「……そりゃ、ジメジメ男がジメジメじゃなくなったのは良いことだと思うのよ。でも毎日のようにノロケ話を聞かされるアタシの身にもなってほしいのよ」
「お前も苦労しているんだな。いつもキンキン騒いでるだけかと思ったぞ」
「何よそれ! どーいう意味なのよ!」
キンキンと甲高い声を上げて小梅がまろに飛びかかる。体格差のせいか、傍目から見ればそれは大型犬にじゃれつく子猫のようだった。
騒がしくなった背後を見やり桜石が腰に手をあてる。
「もー。小梅ってば本当に血の気が多いんだから」
「いいんじゃない? 何だか、まろも楽しそうだし」
「そーいえば小梅も最初まろのこと怖がってたよなあ。……まあ、俺もだけど」
バツの悪そうな笑みを浮かべて頭をかくバンタを見やり、「そういえばあたしも」と桜石も笑う。
子どもたちの笑い声と二匹の獣がじゃれ合う声が乳白色の空間に響く。
辺りはすっかり暗くなり、澄んだ空気が広大な建物を包み込んでいた。
***
早朝のやわらかな日差しが辺りを照らす。しんとした空気と頬を刺す痛みが、秋の終わりを感じさせた。
まるで壁のように眼前に広がるのは街の中央に鎮座する広大な駅であった。迷路のように張り巡らされたコンクリートは駅と直通しているバスターミナルへと伸びている。
まだ人の影もまばらにしか存在していないその敷地内に紺色の衣服をまとった三人の子どもの姿があった。
人間の視界には映らないはずの少年少女たちだが、バスターミナルの影に身を隠すようにして寄り添い合い、壁に背中を預けている。
「ふあ、あ……」
大きな口を開けて丸々と太った少年が周りの空気を飲み込むかのような大あくびをする。
眠たそうにごしごしとこすられた瞼はぴったりと閉ざされ、少年の大きな体はそのままゆらゆらと船をこぎ始めた。
「ちょ、ちょっとバンタ寝ないでよ! 見送りに来たいって言ったのバンタじゃん!」
「……だってよお。こんなに朝早いなんて聞いてないぞ」
桜石に肩を揺すられバンタの瞳が薄く開かれる。もう、と呆れたような息を吐く少女の隣でユズルも眠そうに顔を曇らせた。
「……ねえ、なんで僕たち隠れてるの?」
「そうだよお。多香菜さんに会わずに帰るのか?」
少女の左右からとぼけた声があがる。
この二人はどこまで寝惚けているのか。憤りを感じつつ桜石は両側の少年の頬をむに、とつまんだ。
「もう! 二人とも起きてよ! 今日、多香菜は友達と一緒に旅行に行くんだよ? あたし達の姿は多香菜にしか見えないんだから、その友達の前で多香菜があたし達と会話したり何かリアクションしたりっていうのは不可能になるわけ。わかる? こっそり影から見送るのが一番なの」
「……なるほど」
「桜ちゃん、アタマ良いなあ」
じんじんと痛む頬をさすりながらユズルとバンタが納得したようにうなずく。小さく溜息を吐いて桜石も壁にもたれかかった。
・
・
・
車のエンジン音がウトウトと船を漕いでいた三人の耳に飛び込む。
体を預け合って座り込んでいた子どもたちの瞼がうっすらと開かれ、虚ろな瞳が朝焼けの街をぼんやりと映し出した。
「あれ……。……あっ!」
はっ、と目を見開いて桜石が慌てた様子で立ち上がる。急に支えを失くした少年たちの体がぐらりとバランスを崩し――……次の瞬間ごちん、と鈍い音が響いた。
『……いっ…………たああ~!』
激しくぶつけた頭を抱えユズルとバンタが声を揃えて悶絶する。激痛に体を震わせている二人をよそに、桜石は身を隠していた白い壁からそろりと顔を覗かせバスターミナル内に視線を這わせた。
一台の高速バスが発着場に停車している。たくさんの荷物を携えた乗客たちが一人、また一人とバスに乗り込んでいく。
その列の最後に見慣れた顔を発見し、桜石は安堵の息を吐いた。
「ユズル、バンタ! 間に合ったよ!」
押し殺した声で二人を手招きする。頭をさすりながら目に涙を浮かべていた二人は、その声に顔を見合わせると腰を屈めて桜石の後ろからターミナル内を覗きこんだ。
大きな鞄とキャスターを提げた多香菜が穏やかな笑みを浮かべている。そしてその視線の先にいる人物を見やり、ユズルは小さく息を飲んだ。
すらりと高い身長に整えられた清潔感のある黒い髪。およそ想像していた人物と180度違うその風貌に、三人の顔に困惑の色が浮かぶ。
「……あれ、多香菜さんの友達って、男だったのか?」
「っていうか、“友達”っていうより、“彼氏”ってやつじゃない? デートだ、デート!」
きょとんとしたバンタの声。少し高揚した桜石の声。
放たれた言葉がまるで針のようにちくちくとユズルの胸を刺す。
(なんだ……これ……)
初めての感覚にユズルは戸惑いを隠せないでいた。多香菜が笑うたび、隣の男が微笑むたび小さな痛みが増していく。
バスの側面で大きく口を開けているトランクへ荷物を押しこみ、多香菜と男がバスに乗り込む。荷物を手放して暇を持て余したその手は、しっかりとお互いを繋ぎとめていた。
大勢の人を乗せたバスがゆっくりと発車してゆく。迷路のように張り巡らされた道路を迷いなく進み、大通りへと合流し、やがて三人の視界から完全に姿を消した。
ゆっくりと身を隠していた影から這い出し、バスが消えて行った道路の先を見やる。
日の昇りきった街はすっかり本来のにぎわいを取り戻していた。急ぎ足の人々がターミナルの片隅で立ち尽している子どもたちの体をすり抜け、駅へと駆けこんでゆく。
興奮を抑えきれない様子の桜石が興奮気味に跳びはねては声を弾ませた。
「ねえねえ、見た見た!? 多香菜と彼氏さん、超ラブラブって感じだったよね!」
「そ、そう……だね」
なんとか平静を装ったもののユズルの表情はどこかぎこちない。それをからかうようにバンタがニヤニヤと笑みを浮かべながら友人の肩を肘でつつく。
「なんだよお、ユズル。なにショック受けてんだ?」
「ち、ちがっ……そんなんじゃないよ!」
ムッとした表情を浮かべながら慌ててユズルが否定する。尚も笑いながら「顔が赤いぞ」とバンタが付け加えると、目の前の少年は慌てて紺色のフードを被り顔を隠す。
次の瞬間、桜石とバンタが腹を抱えて笑いだした。
誰の耳にも届かない笑い声が晴れ渡った空へと吸い込まれてゆく。一日はまだ始まったばかりだ。
・
・
・
すっかり高くなった太陽が乳白色の世界を照らす。任務の入った桜石とバンタに別れを告げ、ユズルはひとり長い廊下を歩いていた。
眼前にそびえ立つのはユズルとまろがいつも任務を受けに行く仕事場である。これから行うことに少し気が滅入るものの、ユズルは以前と比べて大分前向きに任務に向かえるようになっていた。
「……ユズル!」
前方から飛び出してきた影にユズルは足を止め声の主を見やった。黒い毛並みの獣が血相を変えてユズルに駆け寄る。
「まろ。ちょうど良かった。探してたんだ」
「……任務を受けに来たんだろう?」
「うん」
ユズルがうなずくとまろの金色の瞳がゆっくりと下を向く。苦しげな表情を浮かべ、ユズルから顔をそむけたまろの声は震えてかすれていた。
「……ユズル。落ち着いて、よく聞いてくれ」
「え?」
ただ事ではないまろの様子にユズルも眉をひそめる。言葉がまるで大きな塊のように喉でつかえ、息をするのも一苦労だった。
自身を落ち着かせるように大きく息を吐く。訝しげに首を傾げているユズルの瞳をまっすぐ見上げ、ゆっくりと、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「……次の任務。ターゲットは……多香菜だ」
時間が止まったと錯覚するほど、辺りは静寂に包まれていた。
否、ユズルの耳が、思考回路が、すべての音を、情報を受け入れるのを拒否していた。
ユズルの任務。ターゲットの魂を迎えに行く。
それはつまり多香菜の死を意味していた。
「……うそ、だ……」
信じられなかった。ついさっき、多香菜は三人の目の前にいたのだ。愛する人の隣であんなに幸せそうに笑っていたのだ。
嘘だ、嘘だ。冗談だと言ってほしい。
しかしいくら懇願してもまろは俯いたまま力なく首を横に振るだけだった。
「……嫌だ。どうして、多香菜が……?」
「ユズル。前にも言ったが、これは俺たちの力でどうにかなる問題ではない。多香菜の命が今日尽きることは、最初から決められているのだ。……辛いのは、俺だって同じだ……」
震える息を吐いてユズルがその場に崩れ落ちる。紺色のローブがふわりと風を含んでひるがえった。無造作に折り畳まれたその膝に、まろの黒い前足がそっと添えられる。
「…………行きたくない」
ぽつりと呟かれた言葉にまろが視線を上げる。顔に覆いかぶさった淡い栗色の髪が、ユズルの表情をすべて影の中に仕舞いこんでいた。
「これは、お前に与えられた任務だ。……多香菜の最期を、見届けるんだ」
「嫌だ!」
ユズルが激しく首を振るたびやわらかな髪がさらさらと揺れる。
まろの顔に焦りの色が浮かんだ。こうしている間にも時間は刻一刻と迫っているのだ。
膝に乗せている足にぐっと体重を預け、まろが身を乗り出す。もう片方の足をユズルの肩にかけると、その前髪の間からうつろな瞳が覗いた。
「……ユズル。お前が行かなかったら、多香菜はどうなると思う?」
その問いかけにユズルは何の反応も返さない。ぼんやりとした瞳は黒い獣の姿を映しているのかすら定かではない。
小さく震える肩に爪を立て、まろが語調を強める。
「魂の迎えが来ない者は、死ぬよりも辛い痛みと苦しみを味わうことになる。……お前のもっている鎌は飾りじゃないんだ。肉体と魂を、何の痛みも苦しみも感じさせずに切り離す役目をもつ。
……死神に見放された魂は、激痛に悶え苦しみ、ようやく肉体から離れたところで冥界へ案内する者がいなければそのまま浮遊霊や地縛霊になるのが大半だ。お前は、多香菜の魂がそうやって無残に朽ち果ててもいいのか?」
「っ……!」
息を飲み、ユズルが顔を伏せる。
震える手をぎゅっと握りしめ、深く息を吐きながらゆっくりと顔をあげ、ようやく絞り出された声は憔悴しきっていた。
「……時間は、いつ?」
「今から一時間後ほどだ」
「場所は?」
「ここから90kmほど離れた山中で、とのことだ」
「……間に合う?」
「ギリギリだな」
覚悟を決めたように少年の眉が上がった。
行こうと一言告げて立ち上がる。弾かれたように駆け出すまろに続き、ユズルも全力で地面を蹴った。
***
蛇のように曲がりくねった道を辿ると、やがて目を見張るような惨劇の爪痕がその姿を現した。
二車線のアスファルトに色濃く残った黒い軌道。突き破られたガードレールの先には切り立った断崖。道路を挟んだ反対側には薙ぎ倒された木々や土砂が流れ出しており、悲惨な事故がここで起こったということを物語っている。
信じ難い光景だった。道路を完全にふさいでいる茶色い土砂の前で、ユズルは思わず足を止める。
今朝見送ったはずのバスが見当たらない。滅茶苦茶にひしゃげ、黒い傷跡のついたガードレールが嫌でも目に入る。
瞬時に頭が理解した。しかし信じたくなかった。
「ユズル、下だ!」
ガードレールの先を見やったまろの声に無理やり肯定させられる。
認めたくなかった事故の結果を。信じたくなかったバスの行方を。
考えるより先にユズルは駆け出していた。まろに続き、途切れたガードレールの続きへと飛び出す。
眼下に広がる深い森。こちらに腹を向けている巨大な高速バス。ユズルの胸の中がざわざわと騒ぎ出す。
「多香菜!」
バスの傍らに投げ出された一人の女性の姿が目に入った。綺麗に着飾った衣服はボロボロに汚れ、頭部からどろりと赤黒い液体が流れ出している。
ユズルの心臓が激しく脈打つ。胸の奥底から溢れ出すものを抑えきれなかった。
気が付くと、大きな声で叫んでいた。その女性の名を。
***
気が付いたら、暗闇の中にいた。
突然バスを襲った轟音と悲鳴のようなブレーキ音。隣の席から伸びる、私を守ろうとする大きな腕。
強い衝撃と共に天と地がひっくり返った。はっきり覚えているのはここまでで。
闇の中に落ちる意識。誰のものか分からない苦しげな呻き声。
ガンガンと痛む頭。感覚を失くしてゆく身体。冷たくなる指先。
ああ、ここで死ぬんだな……なんて考えて、私は自分の冷静さに少し驚いた。
混濁とした脳内に今までの記憶が次々と浮かんでは消えてゆく。
自分でも忘れていた、小さい頃の思い出。友人たちと交わした他愛もない会話。どうでもいい日常。
初めて見た男の人の照れた笑顔。幸せな記憶。
……そして、謎に包まれた小さい友人たちのこと。土産話を楽しみにしてると言っていたのに、どうやら約束は守れそうにない。
このまま死んだら、浮遊霊だと言っていたあの子たちにまた会えるかな。想像もつかない死後の世界に少しの希望を見出そうとしていた、その時だった。
「…… ―― ……!!」
私の耳に飛び込んできたのは、まさにその希望の象徴ともいえる子どもの声。
私の名前を呼んでいる?……もう、迎えに来たのかな。
薄く目を開けた。霞む視界にぼんやりと映り込んだ紺のローブ、淡い栗色の髪。泣きだしそうな顔。隣に、いつも一緒の黒い犬を引き連れて。
震えながら掲げられた右手。その先に広がる空間がぐにゃりと歪み、黒い大きな鎌が姿を現した。長い柄を掴み、少年が私の頭上に刃を振りかざす。
ああ、そうか。そうだったんだ。キミは、浮遊霊なんかじゃなかったんだ。
何だか妙に納得してしまい、私はゆっくりと目を閉じた。暗闇が視界と意識を支配してゆく。それと同時に、胸の中が軽くなるのを感じた。
子どもたちを包んでいた「謎」がひとつ解けたからなのだろう。死ぬ前にわかって良かった。
あとは、キミに任せるね――…… ユズルくん。
***
……20……19……18……
否応なしに減ってゆく数。多香菜の命が尽きるまでのカウントダウン。
「時間」がこくこくと迫る。躊躇っている時間はないのだ。右手を掲げ、大きな鎌の柄を握りしめる。そのまま勢い任せに振りあげる。
視界の隅に映る黒光りする切っ先。命が尽きる瞬間を、今か今かと待ち侘びているような鈍い輝きにユズルは顔をしかめた。
この手を振りおろせば多香菜は死ぬ。もう二度と、その眼が開くことはないのだ。
……15……14……13……12……
柄を握りしめる手が震える。じわりと目頭に浮かぶ雫が、力なく横たわっている多香菜の姿を滲ませた。
……8……7……6……
ユズルの心臓がばくばくと激しく脈打つ。隣で、まろがそっと多香菜から目を逸らすのが見えた。……友人の最期を直視できないのだろう。それはユズルも同じだったのに。
彼に出来るのは、ただ何の苦しみも与えることなく多香菜の魂を回収することだけだ。それだけに、専念すれば良かった。
……3……2……1……
多香菜を狙っていた切っ先が、ユズルの腕が、ゆっくりと下ろされた。訝しげにまろが彼を見上げると同時に、カウントダウンがその時間を告げる。
『0』
「……うっ……!!」
苦しげな表情を浮かべ、突然多香菜が呻き声をあげた。満足に動かない手足に必死に力を込め、激痛に耐えている多香菜の額から青白い光が浮かび上がる。
「多香菜!」
鎌を足元に投げ捨てユズルが青白い光に駆け寄る。地面に膝をつき、両手でその光をぐっと押し戻すと同時にユズルの背後でまろが吠えた。
「ユズル! 何をしているんだ!?」
「……やっぱり、出来ない! 多香菜が死ぬなんて絶対嫌だ!」
必死の形相を浮かべるユズルの額に透明な雫がじんわりと滲む。がくがくと震えながらも力を緩めようとしないその手のひらが、多香菜の魂と同じ色に輝き始める。
その光は手のひらから腕へ、腕から体へと広がり、やがて少年の小さな身体は青白い輝きにすっぽりと包まれてしまった。呆気にとられてその様子を見ていたまろが、ようやく状況を飲み込んだらしく焦燥しきった声をあげた。
「ユズル! やめるんだ!自分が何をしているのか分かってるのか!?」
「……うん。僕は今、初めて自分が死神で良かった、って思ってるよ」
「っ……!」
聞こえてきたのはあまりにも穏やかな声で、まろの不安が一気に掻き立てられる。
始めからユズルはこうするつもりだったのかもしれない。魂を司る死神の力を、本来の用途とは正反対の目的で使うために。
それですべての力を使い果たそうとも。その結果自らが消滅することになっても。
まろが奥歯を噛みしめる。死神本来の任務を放棄し、自らの命を投げ出すような真似をこのまま見逃すわけにはいかない。
しかし、力づくで多香菜から引き離そうと何度突進しても、まろの体はユズルに触れる前に青白い光に阻まれてしまう。
長年死神のパートナーとして務める事を運命づけられた獣ですら、限界まで高まったその力の前では成す術などなかった。
青白い光がゆっくりと多香菜の額へと沈んでゆく。その光景を、まろは目を細めて見守る事しか出来なかった。
ユズルの指先がその額に触れてもなお、青白い光は衰えることなく少年の体を包んでいた。
「……ユズル……」
金色の瞳が見上げたパートナーの顔は満足気に緩んでいた。穏やかなその視線は血色の戻った多香菜の顔へと向けられている。
「……う……」
「多香菜?」
眉をひそめた多香菜の顔を慌てて覗きこむ。一瞬曇ったユズルの表情が、彼女の瞼が持ち上がると同時にぱあっと明るくなった。
「…………ユ、ズル……くん……?」
「多香菜……良かった……!」
目を細めてユズルが安堵の息を吐く。淡く光るその少年の姿を、多香菜は霞がかった視界でぼんやりと見つめていた。
隣で目を伏せているのはいつも少年と一緒にいる黒い獣。視線をずらすと、自分へ振り下ろされんとしていた大きな鎌が転がっているのが見えた。
死を覚悟していた。―……しかし、自分は今生きている。
自分を、魂を迎えに来たのだろう死神の子どもが、目の前で涙を浮かべて微笑んでいる。
状況を飲み込めないでいる多香菜の耳に聞きなれた少女の声が飛び込んできた。同時に、桃色の髪と濃紺のワンピースをはためかせながら崖上から桜石が軽やかに降り立った。
「ユズル! 多香菜!」
「桜石……?」
振り向いたユズルが小さく目を見開く。どうしてここに、と問うもその答えは返ってこなかった。
桜石の目に映るのは悲惨な事故の光景。そして頭から血を流している多香菜と、不自然に青白く光るユズルの姿。
「なに、これ……。まろ、何があったの?」
「……ユズルの、今回のターゲットが多香菜だった、とだけ言っておこう」
「えっ……?」
不安気に見開かれた桜石の大きな瞳が揺れる。目を伏せたままのまろからユズルへ、多香菜へ、そして地面に無造作に転がった黒い鎌へと視線を移し、その顔色がみるみる青ざめてゆく。
「……そんな……。まさか、ユズル……!?」
「……ごめん、桜石。でも、こうするしかなかった。……多香菜を……死なせたく、なくて……」
ユズルを包む光がぐらりと揺れる。まるで、小さな炎のようだった。
風が吹けば消えてしまいそうなほどその姿が儚く霞む。
瞳から大きな雫をぽろぽろと零し、桜石が激しく首を振る。続いて飛んできた怒号は、涙に霞んでいた。
「バカ! ユズルのバカ! どうしていつもあたしを置いて行っちゃうの? ……絶対、あたしを一人ぼっちにしないって言ったのに……」
顔を覆い、声を上げて泣きじゃくる桜石にかける言葉もなく、ユズルはただ困惑した表情を浮かべて目を伏せる。
その横顔にかけられた多香菜の声も、小さくかすれていた。
「……ユズル、くん……。私を、助ける……ために……?」
激しい痛みでしびれる腕をそっと伸ばすと、青く揺れる体をすり抜けた指先からじんわりと温かいものが流れ込んできた。多香菜の瞳に熱い雫がこみ上げる。
「……ダメ、だよ。泣かないで……。僕、多香菜にこれからも笑っていて欲しかった、から……。だから……」
その後の言葉は空中に溶けるように消え入った。ぐらりと揺れ、崩れ落ちた体は音もなく地に伏す。
細く伸びる光が、まるで煙のように空に吸い込まれてゆく。
「ユズル!?」
慌てて駆け寄った桜石がその体を抱き起こす。
腕の中のユズルの身体は実体がないかのように淡く、儚く、軽かった。
桜石の両の瞳から止めどなく溢れ出す涙が、青白く溶けてユズルの頬を揺らす。薄く開かれた瞼の下からやわらかい眼差しが返ってきた。
「その時」が近いのだろう、ということを桜石も感じ取っていた。しかし、一層激しく頬を伝う雫が、どうしてもそれを受け入れようとしない。
「……やだ……。やだよ、ユズル……!」
「…………さく、ら……いし……」
炎のように輪郭を歪めながら、ユズルの手のひらが桜石の頬に添えられる。温かいような、冷たいような不思議な熱が桜石を包む。
「……桜石、は……ひとりじゃない……。多香菜、や小梅……バンタも、まろも……。みんな、桜石のそばに、いる……から」
「嫌だよ! ユズルがいなきゃ嫌なの! ……ユズルがいなきゃ、意味ないのに……!」
桜石が大きく首を振るたび、透明な雫が宙で煌めく。少年の肩を抱く手にぎゅっと力がこもる。
儚くも、確かに存在するはずの、存在していたはずの熱が薄れていき、命が尽きてゆく。
ユズルの視線が力なく耳を垂れている黒い獣へと向けられる。悲しく潤む金色が、消えゆくパートナーの姿を見つめていた。
「……まろ……。桜石の、こと……よろしく……」
「ああ……。任せろ」
「…………あり、がとう…………」
安心したように穏やかな笑みを浮かべ――……ユズルはゆっくりと、その瞳を閉じた。
「ユズル!? ……ユズル!!」
桜石の悲痛な叫びはもう届かない。抱いていた肩が、ただの青白い光に変わる。
その輪郭も、その表情も、すべて青の中に混ぜ込んで、
一筋の光が、溶けるように空へ昇って行った。
滴る雫が自らのひざを濡らす。からっぽになった腕の中には、少しの余韻すら残されていない。
たがが外れたように泣き叫ぶ桜石の声を、多香菜とまろだけが聞いていた。
皮肉なほど晴れ渡った空は、少年と同じ色をしている。
どこか遠くで、救急車のサイレンが鳴っていた。
***
太陽の光を照り返して、真っ白に輝く巫女装束が目に眩しい。
その後ろについて歩みを進めるのは丁寧な化粧を施した一人の女性。そしてその隣で歩幅を合わせて歩くのは袴姿の男性。
厳かな空気に満ちた神前に、着物に身を包んだ初老の夫婦や落ち着いた洋服で控えめに着飾った若い男女たちが集まっていた。
物音ひとつ、息遣いのひとつすら響きそうなほどその場は静かで。張り詰めている緊張感すら心地良いほど、その場は幸せな空気に満ちていて。
何やらぶつぶつと呪文のような言葉を唱えているおじいさんの話に、ありがたく耳を傾けて頭を下げたり、ちみちみとお酒を飲んだり。
そんな光景ばかり繰り返されて二人の子どもはすっかり退屈しきっていた。
「ふああ……。なあ、これいつまで続くのかなあ? 結婚式って、もっと派手にやるもんだと思ってた」
「あたしも……。でも、これが習わし? なんだって。シンゼンシキって言ってたよ」
丸々と太った少年が大あくびをする横で桃色の髪の少女も眠そうに目を瞬かせている。
式に参列する男女たちの一番後ろで、壁にぴったりと沿ってその様子を見守る。おじいさんの言葉も、執り行われている儀式の意味も、子どもたちにはさっぱり理解の出来ないものだったけれど。
白い着物と角隠しに身を包んだ新婦は、今まで見たどんなものよりも美しくて子どもたちの胸を高鳴らせていた。その女性の姿を見るために、幸せそうな顔を見るためにはるばる来たのだ。
完全に緩みきった顔で少年がうっとりとした声を上げる。
「ホントに綺麗だよなあ、多香菜さん」
「うん。……ユズルにも、見せてあげたかったな」
ぽつりと少女が呟く。眉をひそめ、女性を追うその眼差しはどこか遠くを見つめているようにも見えた。少し湿っぽくなった空気の中で少年の同意する声が聞こえる。
2年前、一人の女性を助けるために自らの命を投げ出した友人のことを思い出す。
いつも憂いを帯びた表情で、一人佇んでいた。
大人しい子どもだった。笑わない子どもだった。……しかし、とても心優しい少年であった。
「……ユズルがね。最期に、笑ってたんだ。すごい、穏やかな顔で……」
少女の声が震え、枯れ果てたはずの涙が両の瞳から溢れ出す。
この2年間、何度も何度も思い出して、何度も何度も泣いて、それでも尚涙は尽きることなく、胸は新しい傷が付けられたかのごとく痛みを訴える。
「……多香菜の、今日の姿を見たら、ユズルはまた笑ってくれるのかな」
「桜ちゃん……」
静かに涙を流す少女の横顔を、少年はただ黙って見つめていた。数え切れないほど見てきた少女の泣き顔は何度見ても慣れないものだった。
多分、きっと。少年が呟いた言葉に、泣いていた少女も小さくうなずく。
静かに新郎新婦に背を向け、二人の子どもは式場を後にした。外に出た瞬間、目がくらむほどの眩しい日射しと元気に跳ねまわる獣の声が二人に降り注いだ。
広々とした境内を走りまわるピンク色の小動物はひっきりなしに黒い大きな獣に飛びつき、離れ、楽しそうにじゃれている。
黒い獣の頭の上には、丸々と太ったネズミが振り落とされまいと必死にしがみついている。チチ、チチチ、という小さな叫びが甲高い声に交じって境内に響いた。
「おーい、みんなー!」
大きく手を振りながら獣たちを呼ぶ太っちょ少年の声に、最初に反応したのはネズミだった。チチチと声をあげ、短い手足で必死に境内を駆け抜ける。後に続いた二匹の獣も、二人の子どもの眼前で足を止めた。
「もう良いのか?」
金色の瞳で見上げながら黒い獣が問う。うん、とうなずいた少女の腕の中にピンク色のふわふわが飛び込んで甘える。
「ねえねえ桜石! あっちに面白そうなものがあったのよ!行ってみない?」
「そうだね。行こっか、小梅」
やわらかい毛並みを撫でるとピンクの獣は気持ち良さそうに目を瞑る。その足元で、黒い獣が意地の悪そうな笑みを浮かべて少年を見やった。
「よし、じゃあ俺と競争しようか、バンタ?」
「ええ~~っ。勝てるわけないだろお。あんまり俺をいじめるなよなあ」
「うん、丁度いいんじゃない?バンタ、おジイに少し痩せろって言われてたじゃん」
「さ、桜ちゃんまで……」
「それじゃ、よーいドンなのよ!」
困り果てた顔の少年をよそに、ピンクの獣が唐突にスタートの合図を切る。瞬間、駆け出した二匹の獣と一人の少女。出遅れた少年が、あたふたとお腹を揺らして皆の背中を追いかける。
――…………ザザザッ……
「……えっ……?」
穏やかな境内を吹き抜ける一抹の風。桃色の髪がふわりと揺れる。
頬を撫でる懐かしい気配に少女は思わず立ち止まり、どたばたと追い抜いてゆく足音を聞きながら後ろを振り返った。
背後にはもう誰もいない。
しかし、確かに気配を感じたのだ。それは少女の中に溢れる熱が物語っている。
空っぽだった胸の中が、温かいもので満たされてゆく。
頬は紅潮し、見開かれた瞳は大粒の雫に覆われ、無数の光を反射して輝いた。
柔らかい髪。幼さの残る丸い頬。一呼吸おいて喋り出す、静かなその声も。小さな手の温もりも。
まるで昨日までそこに居たかのように、少女の中に鮮明に蘇る。
「……おかえり、……ユズル」
言葉が自然と零れる。懐かしいその風が、式を終えて出てきた新婦の袖を揺らすのを見届けて少女は涙を拭った。
――……ああ、いま、笑っているのかな。
「桜石ー! 早く早くー!」
甲高い声が背後からあがる。今行く、と言葉を返して少女が駆け出す。
その顔には、2年ぶりの笑顔を浮かべていた。
***
白い病室に温かな日射しが降り注ぐ。黒い髪をひとつにまとめ、病衣をまとった女性が穏やかな表情を浮かべて赤ん坊を抱きかかえている。
「……やっと、会えたね」
そう呟き、愛おしそうに微笑みながら赤ん坊の柔らかな頬を撫でる。
やがて病室の扉が開かれ、廊下から一人の男性が顔を覗かせた。手には透明なクリアファイルを抱えて、足音を立てないようにゆっくりと女性に近付く。
「多香菜。出生届け、もらってきたよ」
「うん。ありがとう」
「名前、もう決めてるんだっけ?」
女性の隣に腰を下ろし二人の顔を交互に見やる。うんとうなずいて赤ん坊に視線を戻した女性は、どこか懐かしそうに目を細めた。
「……譲」
独り言のように呟かれた三文字の名前。涙を浮かべて女性が微笑む。
その腕の中で寝息を立てる小さな命。
淡い栗色の髪が、日射しを受けて輝いていた。
終