1.

赤く滲む白衣を押さえながら、耕焔が体勢を立て直す。視界をぐるりと回し、祷葵に馬乗りになっている套矢を確認して、満足そうな笑みを浮かべた。
視界の隅に耕焔の姿を見とめ、祷葵は静かに涙を流す套矢の背中をそっと撫でた。息を飲んで体を震わせる套矢の耳元で「大丈夫だ」とささやく。
そんな二人のやり取りなどは露知らず、耕焔は両手を広げて仰々しく笑った。
「実に良いですねえ。その無様な格好、私は好きですよ。愛する弟に裏切られた気分はどうですか?私が聞いていてあげますから、思う存分絶望の声をあげてください。」
勝ち誇ったような顔で耕焔が煽る。しかし、今となってはその言葉も何一つ意味をもたなかった。
套矢の背中を片腕で支えながら、祷葵が上体を起こす。期待に満ちた表情で見下す耕焔の顔を、真正面から見つめ返す祷葵の口元には笑みが浮かんでいた。耕焔が眉をひそめる。
ゆっくりと祷葵が立ち上がる。松葉杖の代わりとなって、その体を支えるのは套矢の腕だった。四つの黒い瞳が耕焔を睨む。状況を察した朝奈が、小さく笑みを浮かべた。
「套矢・・・お前、私を裏切るのか?今まで育ててやった恩を忘れたのか?」
憎々しげに口を開く耕焔の眉が怒りに震えている。答える代わりに、套矢は祷葵の白衣をぎゅっと掴んだ。
「耕焔。もう諦めたらどうだ。套矢を失ったら、もうお前に武器など残されていないだろう。」
額に汗を浮かべながら、耕焔が祷葵を睨む。その表情からは焦りや屈辱がうかがえる。
朝奈や暁良もじっと口をつぐみ、耕焔の反応を待った。誰もが降服を願っていた。そして、誰もが勝利を確信していた。

耕焔の瞳がある一点をとらえる。その肩が小刻みに震えだし、やがてそれは高笑いへと変わる。
空を仰ぎ、狂乱したかのような笑い声をあげ続ける耕焔を、四人は呆然と見つめていた。
「残念だったなあ。運はまだ、私に味方しているようですよ?」
耕焔の顔が、不快な形に歪む。祷葵の背中を冷たいものが撫で上げた。

かすかに聞こえる、鳥とも獣ともつかない鳴き声。それは吹き荒れる風とともに段々と近付いてくる。
後ろを振り返り、朝奈が小さな悲鳴をあげた。祷葵の目にもはっきりと映っていた。大きな翼をはためかせ、真っ直ぐにこちらに向かってくる、黒き異形の姿が。
赤い二つの瞳が祷葵をとらえる。鋭い爪が、黒い体がその狙いを定めた。渾身の力を込めて、祷葵が套矢を突き飛ばす。
前のめりになってふらつく套矢の背後を突風が駆け抜ける。
「兄さ・・・!」
振りかえり、套矢が声をあげたその先に、祷葵の姿はもう無かった。

長い尻尾をなびかせ、ゆっくりと翼をたたみながら、異形が次の標的を探す。その黒い体の向こうに、アスファルトの上に横たわる白衣が見えた。套矢と朝奈が同時に声をあげる。
「兄さん!」
「祷葵!」
赤い瞳がギラリと光った。射抜かれるような視線に、套矢は思わず駆けだそうとした足を止める。
鋭い爪が振りあげられた。次の標的が決まったようだ。焦りと恐怖で套矢の全身から汗が噴き出す。
「朝奈、危ない!」
あらんかぎりの声を張り上げて套矢が叫ぶ。しかし、もう間に合わなかった。
異形の爪が朝奈を横殴りにする。短い悲鳴をあげて、朝奈の体が地を転がった。
「姉ちゃん!・・・くそっ!」
暁良が手にしていた拳銃を構え、黒い体に続けて弾を撃ち込む。乾いた音が連続で鳴り響いた。
異形が顔をしかめ、痛みに耐えるように身をよじる。しかし、それはすぐに怒りへと変わった。

まるで虫を払うかのように繰り出された異形の手が暁良をとらえる。悲鳴をあげるより早く、暁良の体は固い地面に叩きつけられた。
「っ・・・暁良!」
泣きだしそうな声で套矢が叫んだ。小さな呻き声が套矢を取り囲む。
地面に横たわる三人の男女。その中心で勝利の咆哮をあげる黒き異形。套矢はただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
「・・・兄さん・・・。朝奈・・・。暁良・・・。」
かすれる声で名前を呼ぶ。そのたびに、胸の中に岩が入り込んだように息苦しくなる。
背後で耕焔の笑い声が聞こえた。放心している套矢の肩に耕焔の手が置かれる。体を揺さぶられ、套矢の髪がさらさらと揺れた。
「本当に、套矢はすごいものを作ったな。こんな一瞬で形勢逆転できるとは。古斑研究所所長の名に恥じない仕事っぷりだ。」
満足そうに笑う耕焔の声を、套矢はどこか遠くで聞いていた。黒き異形はその翼をたたみ、套矢の眼前で大人しく待機している。まるで、忠誠を誓っているかのように。
「・・・違う・・・。俺は、こんなの望んでなんかいない・・・。」
頭を押さえ、套矢は激しくかぶりを振った。この異形を作り上げるときも、河拿研究所や市街地に送り出すときも、套矢はいつも厚いガラスの向こうで、自分が行っている行為をただ見ているような感覚に陥っていた。この異形が忠誠を誓っているのは、自分だけれど、自分では無い。
しかし、そうやって責任逃れをしたところで、套矢の胸の内は一向に晴れなかった。この異形を作り出したのは、間違いなく自分なのだ。そして、幼馴染や、実の兄をもこの手にかけたのだ。
「うわあああああっ!!」
両目から熱い涙がこぼれ落ちる。喉からせり上げる叫びを抑えきれず、半狂乱になりながら套矢は地面に転がった拳銃を拾い上げた。
異形が動揺の色を見せる。無抵抗なその体に、套矢は一心不乱に弾を撃ち込んだ。悲痛な叫び声をあげながら身悶える異形から、鋭い爪が横凪ぎに繰り出される。容赦ないその攻撃に套矢の体は簡単に数メートル吹き飛ばされ、駐車場を覆う塀に叩きつけられた。息が止まるようなその衝撃に声をあげることすら出来ず、套矢の体はそのままずるりと塀をつたって力なく地に落ちる。
激しい痛みが全身を襲う。立ち上がることすら出来ずに、套矢はただ硬いアスファルトの感触を感じていた。くくく、と押し殺したような耕焔の笑い声が聞こえる。
「バカだなぁ套矢は。大人しくしていればそんな目に遭わずに済んだのに。」
ゆっくりと目を開けた套矢の視線の先に、小さな白い塊が見えた。ぼんやりとした焦点が合うと同時に、それが朝奈の持っていたゴム人形のドラゴンだと分かる。痛みに顔をしかめながら、套矢はゆっくりと人形に手を伸ばした。

子どものお小遣いで買える、小さなヒーロー。大きな目玉と愛くるしい表情で、一見間の抜けた印象を与えるが、実はとてもカッコイイ正義の味方なのだということを套矢は良く知っている。
アスファルトを蹴る革靴の音が近付く。低くうなる異形の声が聞こえる。
悲鳴をあげる腕に鞭をうつ。震える指先がゴム人形に触れる。もう一息だった。

(お願いだ―・・・兄さんを、みんなを助けて・・・!)

ころん、と套矢の手の中にやわらかい感触が転がり込む。藁をもつかむ思いで、套矢はその人形を握りしめた。

2.

「キュウウウウウゥゥッ!!」

突風が吹き荒れる。套矢の背後にそびえ立つ塀の奥から、白いドラゴンが舞い上がった。
甲高い咆哮をあげ、翼を激しくはためかせるその巨体は、太陽の光を受けて神秘的な輝きを放っている。
その姿はまさに、子どもの頃熱をあげていた正義のヒーローそのものだった。
「フリーク・・・!」
そのヒーローの名を口にすると、套矢の中に不思議な安心感と高揚感が生まれた。テレビの中で、ヒーローはいつも無敵だった。カッコ良く登場して、悪いやつらをみんなやっつけてしまうのだ。
まるで套矢の声に返事をするかのように一声鳴くと、白いドラゴンは黒の異形に向けて一直線に風を切った。そして、突然のことに反応が遅れた黒い異形の首にその鋭い牙を突き立てる。悲痛な叫び声を上げて、異形が激しく暴れた。
白と黒。二匹の異形が牙を交えるその喧騒に、祷葵と朝奈も意識を取り戻したようだ。小さく呻きながら上体を起こし、激しくぶつかり合う二つの影を呆然と眺めている。
「・・・フリーク・・・?」
繰り広げられる光景に目を見開きながら、祷葵の口からも自然にその名がこぼれる。それは朝奈も同様だった。自分たちで作り上げた白き異形の姿と、正義のヒーローの姿が重なり合う。
二匹の異形は、まるでダンスを踊るように絡み合いながら上空へと舞いあがった。離れてはぶつかり合い、また距離を取っては牙を向け、お互いの体がどっちのものともつかぬ体液で汚れていく。
アスファルトに座りこんだまま、三人は上空から聞こえてくる異形たちの声にただ耳を傾けていた。耕焔もまた、呆然と空を見上げている。河拿と古斑、両者の命運はすべて二匹の異形に委ねられた。

「・・・がん、ばれ・・・!」

朝奈の口から、小さな声援がこぼれた。ぐっ、と地面についた手に力を込め、白いヒーローに向かって朝奈は再び、今度はあらんかぎりの声を張り上げて声援を飛ばす。
「がんばれフリーク!負けないでーっ!!」
突然あがった大声に、祷葵と套矢は目を見開いて朝奈を見やる。当の本人は、真剣そのものだった。
そっと手を開き、套矢は小さなゴム人形に視線を落とす。大きな瞳で愛嬌をふりまく正義のヒーロー。その人形を再びぎゅっ、と強く握りしめ、套矢も朝奈に続いて上空を仰ぎ声を張り上げる。
「フリーク!がんばれーーっ!!」
真剣な表情で声援を送り続ける朝奈と套矢。その二人を見つめる祷葵の顔に、自然と笑みが浮かんだ。
懐かしい光景だった。幼い頃、いつもテレビに向かって三人で必死に声援を送っていた。
ヒーローが勝った瞬間に跳びあがって喜んでいた二人の笑顔が、祷葵はたまらなく好きだった。
穏やかな表情で目を細め、祷葵も顔をあげて上空を見やる。
「負けるなフリーク!がんばれ!」

口ぐちに声援を送り始めた三人は、さぞかし異様に映ったのだろう。耕焔が狼狽した様子でじり、と後ずさる。大の大人が揃いもそろって、まるで幼い子どものような表情を浮かべていた。
「な、なんだ・・・お前たち・・・。」
動揺を隠せない様子の耕焔の眼前に、黒い影が落ちる。やがて、上空から隕石のように勢いよく落下した黒き異形が、アスファルトをめちゃくちゃに割った。苦しげにもがく異形の上に、薄汚れた白いドラゴンが舞い降りる。
鋭い牙がためらいなく異形の胸に突き刺さり、耳をつんざくような断末魔があがった。
ぴくりとも動かなくなった異形から、ようやく牙を抜きドラゴンは上空に向かって勝鬨のような雄々しい咆哮をあげた。朝奈と套矢が16年ぶりの、祷葵が一番見たかった笑顔を浮かべて歓声をあげる。
何も変わらないその光景に、祷葵の顔にも笑みが浮かぶ。そんな祷葵たちとは対照的に、へなへなと力なくその場に崩れ落ちた耕焔は、完全に戦意を喪失していた。
痛む体を押さえて、ふらつきながら祷葵が立ち上がる。力の入らない片足を引きずり、ゆっくりと耕焔のもとへと歩みを進める。すっかり覇気のなくなった瞳で、耕焔が祷葵を一瞥した。
「・・・耕焔。これで、もう決着がついただろう。病気については、良い医者を紹介する。療養している間の従業員の働き口に関しては、うちで引き受けても構わない。
だから・・・もう、終わりにしよう。・・・套矢を、返してくれないか。」
一同が固唾を飲んで見守る中、耕焔はふふ、と嘲るような笑い声をあげた。
「・・・本当に、君はお人好しだな。そんなところまで、父親そっくりだ。まったく腹が立つよ、本当に・・・。」
耕焔の言葉が震える。手のひらで目を覆い、そのまま静かに肩を震わせた。それを承諾と受け取り、祷葵も目を閉じて安堵にひたる。気が抜けたのだろう、杖がある時と何ら変わらない調子で足を踏み出し、祷葵の体がぐらりと大きく揺れた。おっと、などと間の抜けた声をあげているうちに体はどんどんバランスを崩していく。
「ちょっ・・・兄さん!?」
「祷葵!」
慌てて駆け寄った套矢と朝奈に両脇を抱えられ、何とか踏みとどまる。キュウ、キュウ、と心配そうな声をあげて白いドラゴンも祷葵にすり寄る。傷だらけで薄汚れたその体を労わるように、套矢と朝奈がその額を撫でた。
「お疲れさま、フリーク。よくがんばったね。」
「カッコ良かったぞ!やっぱりフリークは正義のヒーローだな。」
口ぐちに褒め称えられ、ぐりぐりと撫でまわされ、白いドラゴンは気持ち良さそうに目を細めた。その巨体から力が抜け、ズンと音を立てながら地面に体を伏せる。徐々に首を垂れるその角度に合わせて、三人もゆっくりとしゃがみこんだ。
「・・・フリーク・・・。」
目に涙をいっぱい溜めて朝奈が呟く。分かっていた、覚悟していた。この戦いで白き異形が命を落とす可能性も、仮に生き延びたとてその体は長くはもたないことも。
ゆっくりと手を伸ばし、祷葵がその鼻先を撫でる。薄く開かれた異形の瞳から、透明な雫がこぼれた。
「ありがとう、フリーク。お前は、私たちの永遠のヒーローだ。」
くるるる、と嬉しそうな声をあげて、白き異形がゆっくりと瞳を閉じる。首が、翼が、長い尾が地面に預けられ、その命が尽きた瞬間を伝えていた。

コンクリートに囲まれた空間に、待ち望んでいた静寂が訪れる。
オレンジ色の太陽が、晴れ渡った空を感傷的に染め上げていた。

第20話 白のフリーク

投稿ナビゲーション