1.
不快な形にゆがむ耕焔の口元を、祷葵はただ静かに見つめていた。
彼の傍らには、未だ片腕を繋がれたままの弟が力なく立ち尽くしている。耕焔の指が、套矢の白衣に深いシワを刻むたび、祷葵の胸の中にどす黒いものがこみ上げた。
ふん、と鼻を鳴らし耕焔が嘲るような口調で祷葵の問いに答える。
「何をした・・・もなにも、子どもをしつけるのは親の仕事です。実のお兄さんの前でこんな事言うのも心苦しいんですが、套矢はなかなか私の言うことを聞いてくれなくて・・・。しつけるのに本当に苦労したものです。」
「・・・それだけじゃないだろう。」
やれやれ、と肩をすくめて話を切ろうとする耕焔を、祷葵が鋭い口調で制する。ふっ、と逸れた祷葵の視線を辿り、耕焔はああ、と合点のいったような声をあげる。
手のひらに収まるほどの小型の機械。丸く塗りつぶされた中央部分は、何か音を出すためのスピーカーのように見えた。
「この機械は、套矢をしつけるためのちょっとしたお手伝いさんですよ。元の人格を押さえこみ、私が与えた新しい人格を定着させるためのね。・・・本当に祷葵くんは洞察力が鋭い。こんなに早く気付かれるなんて思ってもみなかったよ。」
「・・・じゃあ、やっぱり・・・!」
眉をひそめて朝奈が声をあげる。祷葵もまた、今まで見せた事のないような目つきで耕焔を睨んでいる。豪快に笑い声をあげる耕焔の顔を、套矢がゆっくりと見上げた。
「最初から、新しい人格を植え付けようなんて思っていたわけじゃない。父さん、と泣けば私がそばに行ったし、兄さん、と泣けば新しい養子を連れてきて兄を作ってやった。
それでも駄目だった。套矢は私も新しい兄もすべて拒絶して毎日泣いていた。・・・私がどれだけ困り果てたかわかるでしょう?
うちに来たからには、いつまでも河拿の子でいてもらっては困るんですよ。だから、古斑套矢としての人格を作って彼に植え付けた。仕方なかったんですよ。」
悪びれる様子もなく、耕焔の口調はむしろ同情して欲しいと言わんばかりだった。こみあげる怒りを抑えきれず、祷葵は語気を荒げる。
「・・・お前は、自分の思い通りに動く人形が欲しくて套矢を引き取ったのか?套矢の病気を治す代わりに養子に欲しいとさんざん駄々をこねて、私たち家族から無理やり引き離して、その後一度の面会も許さなかったのは套矢に新しい人格を作ったのを知られたくなかったからか?・・・お前の目的は一体何なんだ。」
枯葉を舞い上げて吹いた風が、熱く火照った祷葵の体を冷ます。指先が真っ白に痺れるほど握りしめていた拳をほどき、自身を落ち着かせるように祷葵は小さく息を吐いた。しかし、耕焔に対する怒りは衰えることなく、胸の中でどろどろと渦巻いている。
耕焔の細い瞳が冷たく光る。くくく、と声を押し殺した笑い声があがった。
「最初は、君たちのご両親を少し懲らしめたかっただけなんです。同じ研究内容を有する私と河拿さんは、いわばライバルのようなものでした。・・・でも、どうしてだか、私は全然彼に敵わなくて。ちょっと困らせてやろうと思って、彼の大事なものをひとつ、奪ってやろうと思ったんです。自分が可愛がって可愛がって育てた息子が、敵対して牙をむく姿を見たらどんな反応するかと思って。」
さもおかしそうに笑う耕焔の姿に、朝奈は怒りを通り越して恐怖すら感じていた。そっと視線をあげて隣を見やると、祷葵も凍りついた表情で耕焔を見すえている。
そんな、個人的な私怨のためだけに套矢を壊したのか?我に返った祷葵の拳が再び強く握りしめられた。そんな祷葵の反応を面白がるかのように、耕焔は言葉を続ける。
「套矢の人格の定着には相当な時間がかかりました。最初は本人もかなり抵抗してましたから。套矢を両親に合わせるには、人格が完全に定着してからの方が都合が良かったんです。・・・それなのに、套矢を引き取ってから7年もの間、ご両親は毎日のように様子を尋ねてきた。ご両親や君の気配を感じると、套矢の元の人格が暴れるから本当に厄介なんですよ。・・・研究者の性ってやつですかね、いつしか、套矢に新しい人格を植え付ける実験を成功させるのが私の目的になっていて。それで、邪魔になったご両親には悪いけど退場して頂きました。君には、本当に悪いことをしたと思っているよ。」
申し訳ない、と思っている割には頭のひとつも下げない耕焔に、祷葵の怒りはつのるばかりだった。無論、頭を下げられたところで何ひとつ許すつもりはない。
耕焔の話に憤りを感じつつも、朝奈は祷葵の横顔を心配そうに見つめていた。今はまだ冷静を保っているものの、祷葵もそろそろ我慢の限界だろう。何かあった際にいつでも動けるよう、朝奈は白衣の下に隠した、冷たい鉄の感触を確かめた。
怒りのあまり、言葉も出ないのだろう。祷葵はただ黙って、瞬きひとつしないまま耕焔を睨んでいる。そんな祷葵の反応を引き出すように、耕焔は更に話の続きを語った。
「・・・それにしても、祷葵くんが河拿研究所を再建したと聞いたときはびっくりしましたよ。しかも、ご両親にも引けを取らない、むしろそれ以上の研究を世に送り出している。こんなに若いのに、って感心しました。・・・だから、どうしても欲しくなっちゃったんです。私の悪いくせですね。」
「・・・套矢からは、お前が不治の病にかかって、それでクローンを作りたがっていると聞いたが。」
低く、唸るような声で祷葵が言葉を返す。套矢も、耕焔の次の言葉を待っているようだ。じっと押し黙って父親の顔を見つめている。ふふ、と自嘲気味に笑い、耕焔は肩をすくめた。
「それは本当ですよ。私は不治の病に侵されている。でも安心してください。君の研究は私のクローンが受け継ぎますから。・・・もちろん、君自身が古斑研究所で働いてくれるなら大歓迎ですよ。どうですか、副所長さんも一緒に。」
「ふざけるな。」
「ふざけないで。」
声を揃えて祷葵と朝奈が拒絶する。仲がよろしいんですね、と言って耕焔はまた笑ってみせた。
不気味な静寂が場を支配する。一触即発の緊張感。その空気を破ったのは、研究所に近付く車のエンジン音だった。
耕焔がにやり、と含みのある笑みを浮かべた。祷葵と朝奈も、耕焔から注意を逸らさないまま、駐車場に姿を現した車に視線を送る。車から降り立った二人の男は、対峙したままの四人を一瞥すると、後部座席の扉を開ける。かすかに血の匂いがして、祷葵と朝奈は顔をしかめた。
男たちが、後部座席から何かを担ぎ出す。それは二名の男女の姿だった。まとった白衣は赤黒く染まり、力なく男たちに体を預けているその姿を見とめて、祷葵は目を見開いた。同様に驚愕の表情を浮かべている朝奈の口から、うそ・・・とかすれた声が漏れる。信じられない、信じたくない光景だった。
「・・・瑞煕・・・。遷己・・・。」
震える声で、祷葵がその名を呼ぶ。男たちが、担いでいた人物をそれぞれ地面におろす。どさっ、と音を立てて二名の男女はアスファルトに身を横たえた。声ひとつ上げず、指のひとつも動かさずに。
変わり果てた二人の姿を、祷葵は呆然と見つめていた。怒りに身をまかせて怒鳴りちらせたらどんなに楽だろう。悲しみに身を任せて泣き叫べたらどんなに救われただろう。祷葵はただ、真っ白に霞む頭で、胸の中が空っぽに抜け落ちてゆくのを感じるしかなかった。松葉杖を握る腕にぐっと力を込めて体重を預ける。そうでもしないとこのまま崩れ落ちてしまいそうだ。
震える息を吐きながら凍りついている祷葵を見やり、耕焔は満足そうに口元を歪める。掴んでいた套矢の腕を離し、両手を広げて祷葵に一歩、二歩と近付く。
2.
「安心してください。殺してはいませんよ。君がどうしても我々に協力できないというなら、あの子たちを徹底的にバラして君の研究を探らないといけないからね。今死んでもらっては困る。」
見開かれた黒い瞳が、ゆっくりと耕焔に向けられる。わずかながら、今の耕焔の話に反応を示しているらしい。白くにごる祷葵の頭にしっかりと刻みつけるよう、耕焔はもう一度交渉に踏み出た。
「どうですか。君が私に協力するというなら、彼らの身の安全は保証しましょう。是非古斑研究所に来てください。実の弟とも一緒にいられるし、彼らは助かるし良いことずくめじゃないか。
・・・逆に、どうしても強力できないなら、君の代わりは彼らが務めることになる。その身をもって、我々に有益な研究材料を提供してくれることでしょう。そして、その際には・・・。」
耕焔が白衣の懐を探る。その手には黒光りする拳銃が握られていた。朝奈と套矢が小さく息を飲んで身じろぐ。突きつけられた丸い空洞を、祷葵は顔色ひとつ変えずに見つめていた。
「悪いけど、君には死んでもらいますよ。」
耕焔がにやりと笑う。とっさに朝奈が白衣の下に隠した拳銃に手をかけた。
祷葵に拳銃を突きつける耕焔に、その銃口を向ける。耕焔が不快な笑みをたたえたまま朝奈に視線を向けた。次の瞬間、朝奈の背後で二つの靴音が同時に鳴った。
すかさず振り返り、朝奈が銃を構える。黒光りする鉄を各々の手に握りしめ、二人の男は真っ直ぐ、朝奈に向かって駆けだした。狙いを定めて、朝奈が銃の引き金を引く。乾いた音と共に、一人の男の手から黒い鉄が弾き落とされた。しかし、続けて聞こえてきた破裂音と同時に、朝奈の手の甲に一本の赤い線が刻まれた。鋭い熱と痛みに開かれた手のひらから、黒い拳銃が滑り落ちた。
それを拾い上げようとする朝奈の首に、男の腕が回される。一瞬見えた男の指先には真新しい傷がついていた。
朝奈の視界の隅を、男が蹴り飛ばしたのだろう黒い拳銃が滑る。くるくると回転しながら、その黒い鉄は朝奈の視界から消えた。悔しそうに歯を食いしばる朝奈の眼前に、冷たい銃口が向けられる。
「朝奈!」
身を乗り出そうとした祷葵を、重たい感触が制する。こめかみにあてがわれた鉄がカチャリと音を立て、祷葵の頭の中でやけに大きく響く。
「おっと、動かないでくださいね。私も出来ることなら君を失いたくはないんですよ。」
ぐっ、と息をつまらせて祷葵が横目で耕焔を睨む。眼鏡を媒介せずに映る耕焔の表情はぼやけて読み取れない。祷葵には好都合だった。こんな卑怯者の顔などハッキリ見たくもない。
視線を朝奈に戻す。男二人がかりで完全に身動きを封じられていた。万事休すか―・・・。祷葵がゆっくりと瞳を閉じた、その時、
タァン―・・・
乾いた銃声が一発鳴り響き、銃を構えていた男が手を押さえて後ずさった。突然のことに気を取られ、腕の力を弱めた男の腹に、朝奈はすかさず肘をねじ込む。くぐもった呻き声を上げて、男がずるりと地に伏した。先ほど男に蹴り捨てられた拳銃を探して朝奈は周囲に視線を巡らせる。
しかし、あるべきところにその探し物はなく、代わりに一人の青年が拳銃を構えて立っていた。赤い髪が上下する肩に合わせて揺れていた。息を切らせながら、その青年は心配そうな顔で朝奈に駆け寄る。
「姉ちゃん!大丈夫か!?」
「暁良!?あんた、どうしてここに・・・。何かあったら、街の人を避難させるように言ったでしょ!」
「それなら大丈夫!協力してくれるやつがいたんだ。だから、そいつに後は任せてきた。」
鋭い口調で咎める朝奈に、暁良は得意げな表情を返す。おそらく、街の人々を避難させ、そのまま自分も逃げおおせて欲しいという、弟の身を案じてのことだったのだろう。しかし、そんな姉の配慮も暁良には無意味だったらしい。
暁良の足元で、小さな舌打ちが聞こえる。地に落ちた銃を拾おうとする手を思い切り踏みつけ、暁良はその男に銃口を向けた。ぎりぎりと力を込めながら暁良の靴底が半円を描くたび、男の顔が痛みに歪んだ。
「・・・くそっ、貴様らいい加減に・・・!」
悪態をつきながら、耕焔が祷葵に突きつけていた銃を下ろす。そして、その銃口が暁良をとらえようとする一瞬の隙を、もう一人の銃の持ち主は見逃さなかった。
明らかに、拳銃のものとは違うひと際大きな銃声が響く。同時に、耕焔が横腹を押さえてうずくまった。
そこにいる全員が、一様に銃声の聞こえてきた方を見やった。うつ伏せに倒れている体から、わずかに持ちあげられた黒い左腕。思わず祷葵は感嘆の声をあげる。
「・・・遷己・・・!」
口元にわずかな笑みを浮かべながら遷己はゆっくりと腕をおろした。そんな彼を憎々しげに睨みつける耕焔の表情からは、先ほどまでの穏やかな雰囲気は感じられない。
耕焔の手から滑り下りた拳銃を拾い上げたのは祷葵だった。先ほどまでは、自分を束縛していたその銃口を耕焔の頭へと向ける。形勢逆転、耕焔の表情から焦りの色がうかがえる。
「・・・套矢!何をしているんだ!早くこいつらを取り押さえろ!」
耕焔の怒号に、套矢の体がビクン、と跳ねた。見開かれた瞳に、横腹を押さえてうずくまる父親と、冷たい瞳で父親に銃を突きつける兄の姿が映る。
取り押さえる・・・誰を?誰を・・・助ける?
ガンガンと痛む頭とぐらつく視界。套矢の中で、誰かが必死に叫び声をあげていた。
震える手で、ポケットから銀色に光る刃を取り出す。ぎゅっと握りしめ、套矢はふらつく足でアスファルトを踏んだ。
一歩、一歩、歩みを進めるたびに頭がきしむ。胸の中がぐちゃぐちゃに掻き乱されて息が震えた。
視界に映る耕焔の顔がにやり、と歪んだ。瞬間、套矢の中で何かが弾ける。
「うああああっ!!」
苦しげな叫び声をあげ、套矢が駆けだす。朝奈が、暁良が、祷葵が制する暇などなかった。
低く屈めた体は、その速度を緩めることなく祷葵にぶつかった。低く呻いて仰向けに倒れた祷葵の足元を拳銃がカラカラと滑る。上体を起こそうとした祷葵の上に馬乗りになり、套矢は握りしめたナイフを思い切り振り下ろした。
小さく風を切る音が祷葵の耳をくすぐる。ガツン、と大きな音を立てて、ナイフはアスファルトの小石を弾いた。木製の柄を握る套矢の手は、小刻みに震えている。
「・・・け、て・・・。」
套矢の口から漏れる、小さくかすれた声。それと同時に、祷葵の頬に温かい雫がぽたぽたと落ちては流れる。思わず祷葵は息を飲んだ。
16年前に見た泣き顔が、そこにはあった。両の瞳から大粒の涙をこぼし、潤んだ黒い瞳を細めて8歳の少年が泣きじゃくっている。
震える唇を開き、懇願するように絞りだされた声は、祷葵にしか聞こえないほど、小さくて弱々しいものだった。
「たすけて・・・兄さん。」