1.
小高い丘から街を見下ろすその建物に、磨き上げられた赤い車が滑り込む。
門扉をくぐり抜け、塀に囲まれた駐車場に入ったところで車は動きを止めた。そびえ立つ白いコンクリート造の壁。一見、構造は河拿研究所とよく似ていたが、建物がまとう雰囲気が、ただよう緊張感が、ここが敵地なのだということを祷葵と朝奈に告げていた。
車から降り、二人はゆっくりと、慎重に歩みを進める。駐車場の先―・・・大きな口を開けた玄関の前に、一人の男の姿が見えた。
肩上で切りそろえられた黒い髪が、風に吹かれて揺れている。白衣をまとい、二人に背を向けて立っているその男をしっかりと見据え、祷葵は口を開いた。
「・・・套矢。」
白衣の男がゆっくりと振り返る。漆黒の瞳が祷葵をとらえる。
こみ上げてくるものを抑えるように、祷葵は息を飲み込んだ。大分顔立ちは変わっているものの、確かに幼い少年のころの面影が残っている。
祷葵の中で、凍りついていた時間が動き出す。この瞬間を、16年もの間ずっと待ち焦がれていたのだ。
しかし、当の本人は感動の再会を分かち合うつもりなど無いらしい。眉ひとつ動かさないまま、吐き出された言葉は機械のように、感情のないものだった。
「・・・待ってたよ。河拿研究所の所長さん。」
凍りつくような北風が両者の間に吹き荒れる。思わず体を強張らせる祷葵と朝奈を、套矢はすべての光を吸収するかのような、完全なる黒で見つめていた。
「ここに来る途中で見たと思う。あいつらは俺の研究成果。・・・だけど、まだまだ不完全なんだ。」
套矢の言う『あいつら』とは、街に蔓延る黒き異形のことだろう。肩をすくめながら首を振る套矢の口調は淡々としている。
「だから・・・完成させるには、あんたが必要なんだ。俺に協力してくれる?・・・兄さん。」
コツ、と革靴が音をたてる。表情ひとつ変えないまま、套矢が一歩、祷葵との距離を縮める。
すかさず体を屈めて、白衣のポケットに手を伸ばそうとする朝奈を、祷葵が片腕で制した。
「・・・クローン技術を完成させて、あの異形をどうするつもりだ?街の破壊がお前たちの目的というわけでもないだろう。」
「うん、そうだね。俺も、あんなのにはもう用は無い。だから今日、全部逃がしたんだ。・・・俺が、俺たちが本当に造りたいのは、父さんのクローンだから。」
祷葵の眉がぴくりと動く。相変わらず、套矢は無表情で言葉を続けている。顔も、声も、後から貼り付けられた偽物のようだ。
「・・・古斑・・・耕焔のことか。なぜ、あんなやつのクローンを・・・。」
絞り出すような声で祷葵が問う。凍りついていた套矢の表情に、わずかな変化が見えた。
抑揚のない、その口調にもかすかな怒りの色が感じられる。光を映さないその瞳で、套矢は祷葵を睨みつけた。
「・・・父さんは、重い病気にかかった俺を助けてくれた。ここまで育ててくれた。・・・そんな父さんが、今度は不治の病にかかったんだ。
・・・父さんは、死ぬのを怖がってる。自分のクローンを造って命を繋ぎ、またそのクローンを造って永遠に生き続ける。それが父さんの望みであり、それを叶えるのが俺たちの目的だ。」
套矢が更に一歩、足を踏み出す。いつでも飛び出せるよう、朝奈は細心の注意を払いながら套矢の動向に目を向けていた。
祷葵は動かない。眼鏡の奥の瞳で、套矢をじっと見つめたまま微動だにしない。套矢が、かすかに眉をひそめる。ぽつり、と息と共に吐き出された祷葵の声は、ひどく悲しげなものだった。
「・・・套矢。私を・・・私たちを、恨んでいるか。」
ぴたり、と套矢が歩みを止める。まっすぐに祷葵を見つめ返すその瞳には、明らかな動揺の色が見えた。套矢の唇が震える。震える唇から、震える声が紡ぎだされる。
「・・・恨んでなんか・・・!・・・うっ・・・!」
突然頭を押さえ、套矢が苦しみ出した。息も絶え絶えに呻き声をあげ、ふらふらと後ずさる。目を丸した祷葵が、慌ててその名を呼んだ。
「套矢!」
「っ・・・寄るな!」
鋭い拒絶の声があがり、祷葵は思わず駆け寄ろうとした足を止める。乱れた呼吸を整えながら、套矢は前髪の隙間から祷葵を睨み上げた。
「・・・俺は、あんたを恨んでる。・・・兄さんだけじゃない、父さんも、母さんのことも。みんな、病気になって、邪魔になった俺を捨てたんだ。古斑研究所が、俺を引き取ってくれなかったら、俺は今頃あんたたちに見殺しにされて死んでた。古斑耕焔は、俺の命の恩人だ。」
「違う!套矢は大きな勘違いをしてる!」
声をあげたのは朝奈だった。套矢が鋭い視線を朝奈に向ける。薄茶色の瞳を潤ませながら、朝奈が言葉を続けた。
「套矢みたいな頭の良い子が、何で今まで気付かなかったの?祷葵も、おじさんやおばさんも、套矢のことを簡単に捨てるような人じゃないって、あんたが一番知ってるはずでしょ!?」
「朝奈。」
なだめるように祷葵が朝奈の肩に手を置く。喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んで、朝奈が目を伏せた。套矢の眉が訝しげにひそめられる。
「・・・誰、だ。何で、俺のこと知って・・・?」
「えっ・・・?」
祷葵と朝奈が同時に声をあげた。突き刺さるような二つの視線にとらえられ、套矢は再び頭を押さえる。
「朝奈のこと、覚えていないのか?」
驚きを隠せない様子で、祷葵が尋ねる。頭を押さえたまま、套矢は力なく首を振った。
「知らない・・・。父さんから、何も聞いてな・・・っ!」
套矢の頭を、再び激しい痛みが襲う。苦しげな呻き声と共に、套矢の口から先ほどとは反対の言葉がこぼれる。
「・・・ちがう、覚えてる。兄さんと三人で、よく遊んで・・・う、ぐっ・・・!」
明らかに様子がおかしかった。ちぐはぐな言葉を繰り返す套矢は、まるで一人で会話しているかのようだ。祷葵と朝奈は一瞬顔を見合わせ、また套矢に視線を戻す。
祷葵の中に、ひとつの仮説が浮かび上がった。それはあまりにも突拍子のない、確証も何もない説であったが、今までの套矢の様子とも辻褄があう。
静かに祷葵は口を開き、その仮説を―・・・ひとつの疑問を、套矢にぶつけた。
「・・・套矢。お前は、本当に套矢なのか?」
「どういう・・・意味だ。」
痛む頭を押さえ、荒い呼吸をしながら套矢が問い返す。その瞳を真正面から見つめ、祷葵が言葉を続ける。
「お前も知っているだろう。古斑研究所が、何の研究をしていたか。何故、河拿研究所を狙ったのか。・・・それは、古斑研究所もまた、我々と同じ研究内容を持っていたからに他ならない。」
「・・・俺が、クローンだとでも言うのか?」
「ああ。・・・だが、言葉がひとつ足らないな。」
2.
祷葵が一歩、足を踏み出す。ふらつきながら套矢が後ずさる。一定の距離を保ちながら、套矢は動揺を隠せない表情で祷葵を睨んでいた。
祷葵の中の仮説が、確信へと変わりつつある。口をつぐんだまま話の続きを待つ套矢に、祷葵は望み通りの言葉を与えた。
「お前は、套矢の『人格』のクローンじゃないのか?耕焔が造り出し、耕焔の都合の良いように記憶を植え付けられ、耕焔の思い通りに動く、套矢のもう一つの人格。そうだろう。」
「・・・ちが、う・・・!」
頭をぶんぶんと振り、否定する套矢は明らかに狼狽していた。套矢が強く否定すればするほど、それは肯定へと変わっていく。
「耕焔はおそらく、私や両親に対する憎悪を生み出させるために事実を捻じ曲げてお前に伝えていたんだ。私たちがお前を捨てたのだと繰り返し言い聞かせてな。そして、耕焔はお前にその記憶しか与えなかった。套矢の記憶の形成に深く関わる、もう一人の人物のことは耕焔も知らなかったのだろう。だから、お前は朝奈を知らないんだ。」
追い詰めるような口調で、祷葵が畳みかける。固唾をのんで、朝奈も套矢の反応に注目した。
頭を押さえ、うつむいたまま套矢は痛みに耐えるように震えている。
コツ、とヒールがアスファルトを叩く音。祷葵が制するより早く、朝奈は套矢の眼前まで歩みを進めた。眉をひそめて見上げる套矢に、朝奈は白衣のポケットから取り出したものを見せる。
「套矢。これ、覚えてる?」
朝奈の手のひらでころん、と転がる小さな人形。薄汚れて所々黄ばんではいるが、それはもともと真っ白い体をしていたことがうかがえる。
朝奈の後ろで祷葵が息を飲む。どうやら、彼には心当たりがあるようだ。
「・・・それは・・・。」
套矢が目を見開いて朝奈の手の中に注目する。駄菓子のおまけについてくるような、やわらかいゴム製のちゃちな作り。
白い体から生える、二枚の大きな翼。ひょろりと伸びた長い尻尾。丁寧に作られた鋭い爪も、この体では何の威力も持ちそうにはない。くりくりとした大きな瞳が、子どもの喜びそうな愛くるしい表情を作っている。それは、古いアニメに出てくるような、小さな白いドラゴンの人形だった。
「・・・あ・・・。」
套矢の脳内に、ひとつの光景がよみがえる。それは、16年間押し殺されてきた、「套矢」の記憶。
祷葵と、套矢と、朝奈の三人で良く立ち寄った駄菓子屋。小さなラムネと一緒に詰められた、小さなゴム人形のこと。
わくわくと瞳を輝かせながら封を切った朝奈の手に転がり落ちたのは、真っ黒い体をした敵のキャラクターだった。対して、套矢の手の中に収まったのは、朝奈のものと対照的な色を持つ人形。
じわじわと涙を浮かべる朝奈の手から黒い人形を取り上げ、套矢は自分が当てた白いドラゴンを渡した。満面の笑顔に戻った朝奈を引き連れ、三人は「ある時刻」に間に合うよう急いで家路を辿る。
普段、外で遊ぶことが多かった三人だが、決まった曜日の、決まった時刻になると必ずどちらかの家に集まってテレビの前に座っていた。
ブラウン管の中で大暴れする白いドラゴン。その風貌から、人々には恐れられているが、本当は悪いやつらから街を守る、心優しい正義のヒーローなのだ。
そして、そのヒーローを応援するのが、三人の毎週の楽しみだった。
「・・・白の・・・フリーク・・・。」
自分でも気がつかないうちに、套矢はそう口にしていた。幼い頃大好きだった、アニメの名を。
朝奈の顔に笑顔が戻る。ゴム人形をぎゅっと握りしめ、套矢の名を呼ぶその声は喜びに震えていた。
祷葵も、ひとまず安堵の息を吐こうとした、その瞬間。
キイイィィィィ・・・・
耳鳴りのような、甲高い音が細く響く。同時に、套矢の様子が一変した。
頭を両手で押さえ、苦痛に顔を歪め、口から漏れる悲痛な呻き声は今までと比べ物にならない。
ただ事ではないその様子に、祷葵も顔色を変えて套矢に駆け寄った。
「套矢!大丈夫か!?」
「う・・・あ・・・、・・・っぐ・・・!」
套矢の足ががくがくと震える。もはや、立っていることすらままならない様子だ。
甲高く鳴り響いていた音がぴたり、と止んだ。ぐらりと崩れ落ちる套矢の体を、祷葵がしっかりと受け止める。かろうじて意識が繋ぎ止めたようだが、息も絶え絶えな套矢の瞳は虚ろだった。
套矢の背後で口を開けていた玄関の中から、靴音が鳴る。祷葵と朝奈は同時に音のする方へ視線を向け、一様に驚愕の表情を浮かべた。
中から現れた初老の男性は、手に小さな機械を握りしめながら二人に近付く。憎々しげな表情を浮かべて、祷葵はその男を睨みつけた。
「古斑・・・耕焔・・・!」
射抜くような鋭い視線を辿り、耕焔はにやりと笑った。迷いのない足取りで祷葵の前まで進むと、その腕の中に体重を預けている套矢の肘を掴んで引き寄せる。ふらつきながらも立ち上がった套矢の表情は前髪に隠れて読み取れない。
「わざわざご足労いただき、感謝します。河拿研究所長さん。副所長さん。息子にちゃんとお出迎えを頼んだはずなのに、とんだ迷惑をかけてしまって・・・。申し訳ない。」
あくまで普遍的な態度をとる耕焔を、祷葵は更に鋭く睨みつけた。口調こそ丁寧ではあるが、それが逆に不快感をあおる。
「套矢に・・・何をしたんだ。」
祷葵の拳が怒りに震える。先ほどの仮説が正しければ、その時は―・・・
その問いに答える代わりに、耕焔は不敵な笑みを浮かべた。