1.

乾いた音が鳴り響くたびに、空を舞う黒い影がひとつ、またひとつと視界から消えてゆく。
あとどれくらい残っているのか、なんて考えたくもない。しかし、祷葵と朝奈が造り出した白き異形の力もあってか、その数は明らかに激減していた。無数と呼べた黒き異形に対し、その数はわずか九匹と一見不利のように思えるが、その力の差は歴然であった。
白き異形は、まるでハエを払うかのような軽やかさで黒き異形を次々と打ち取ってゆく。ふふん、と得意げに笑う朝奈の顔が容易に想像できた。
頼もしい、その白い影に背中を預けて遷己は再び眼前の敵に視線を戻した。掲げた左腕を右手で支えながら、動き回る標的に狙いを定める。破裂音と共に穿たれた熱い鉛は、見事黒き異形をとらえた。
「キュウウゥゥッ!!」
突如、遷己の背後で甲高い悲鳴があがる。聞きなれた黒き異形のとは明らかに違うその声に、遷己ははっとして振り返った。次の瞬間、切れ長の瞳がめいっぱいに見開かれる。
「なんだよ・・・あれ・・・!」
白き異形が、その四肢をだらりと力なく投げ出している。苦痛に歪んだまま凍りついたその表情は、強大な畏怖の存在が現れたことを遷己に伝えていた。
そして、その存在は、白き異形を口にくわえたまま大きな両の瞳で遷己を睨みつけていた。
以前、商店街に現れたものより一回りほど巨大だろうか。今まで感じたことのない程の圧倒的な存在感。漆黒の翼を広げ、その異形はまるで黒い壁のように遷己の前に立ちはだかっていた。
白い亡骸を乱暴に吐き捨て、異形はその赤い瞳をすう、と細める。笑っているかのような表情で、異形はゆっくりと口を開いた。
『オ前・・・生キテイタノカ』
「なっ・・・しゃべった!?」
驚きを隠しきれず、遷己は思わず後ずさった。その距離をつめるように、異形が一歩踏み出す。
『4年前・・・コノ手デ葬ッタハズ・・・。ナゼ、生キテイル?』
血の底から響くような低い声で異形が唸る。遷己の顔から、恐怖の色が消えた。
今の言葉が本当ならば、4年前泉の命を奪ったのはこの異形だ。ようやく現れた仇の顔を、遷己は憎々しげに睨みつける。
この異形が、すべての始まりだったのだ。長い間、祷葵を苦しめ、遷己と瑞煕が戦い続けてきた古斑の異形たちの親玉であり、おそらく古斑の最後の切り札だろう。
こいつを倒せばすべて終わる―・・・根拠のない確信だったが、体の内側からこみあげる高揚感がそれを肯定する。思わず笑みを浮かべ、遷己は体を震わせた。
「会いたかったよ・・・。お前を倒すために、俺は再び命をもらったんだ。4年前の・・・泉の仇を、今ここでキッチリとらせてもらうからな!」
そう言って黒光りする左腕を異形に向ける。威嚇するように大きく鳴いた異形の体に、一発、二発と続けて弾を撃ち込む。低い呻き声と共に異形の動きが止まった。
その隙に、遷己は一目散に駆けだして異形と十分な距離をとる。地を滑るように足をとめ、振り向きざまに異形に向けてもう一発、鉛を撃つ。
異形が体をのけぞらせてよろめく。全身から細い煙が立ち込めていた。しかし、再び遷己を睨みつけたその瞳は、衰えることない光を放っている。

にやり、と異形が笑った―・・・ ように見えた。

びゅう、と殴りつけるような突風。目も開けられないその衝撃に、遷己はとっさに両腕を眼前に構える。
巨大な物体が近付いてくる気配に、危険だ、逃げろ、と脳が騒ぐ。
左腕を前に突き出し、薄く目を開ける。しかし、ひらけたはずの視界は何故か黒く塗りつぶされていた。反射的に、遷己は銃の引き金を引く。
状況を把握する前に、遷己の右肩に激痛が走る。しかし、直前に放った弾丸が功を奏したのか、致命傷は免れたようだ。
溢れ出す温かい液体が、ゆっくりと白衣を染めてゆく。苦痛に顔を歪めながらも、遷己は体勢を立て直して異形を睨みつけた。
両者の間に、もはや言葉は必要なかった。相手を貫くような鋭い眼光は、互いの命を奪うことだけを考えている。
じりじりと間合いをとり、遷己はゆっくりと左腕に手を添えた。
黒き異形が、鋭い爪をギラリと光らせる。瞬間、遷己は弾かれるように駆けだした。
肩の傷をものともせず、ひたすら黒い巨体に弾を撃ち込む。乾いた音が絶え間なく響き、そのたびに異形が呻きながら悶える。ひとつひとつの傷は浅いが、確実に異形の体力を削ることは叶っているようだ。
地鳴りのような声と共に、黒光りする爪が横凪ぎに繰り出される。それを避けようとした遷己の体に衝撃が走り、次の瞬間、宙に投げ出されていた。
風を切って空を滑るその軌道を、鮮血がなぞる。数メートル離れた地面に叩きつけられ、ゴロゴロと転がりながらようやく遷己の体は停止した。
「・・・う・・・、ぐっ・・・!」
激しい痛みが全身を襲い、声をあげることすらままならずに遷己は地面に横たわる。
右手を動かすと、微かに指先が反応した。ぐっ、と力を込めると刺すような痛みが走る。
震える腕で、ようやく上体を起こす。額には脂汗がにじみ、浅く繰り返される呼吸は苦しげで今にも消え入りそうだ。
ふらつきながらも何とか立ち上がり、左腕を構える。とどめを刺そうとにじり寄る異形に向けて、一発。
穿たれた熱い鉛は異形の左目をとらえ、同時に空を揺らすような叫び声があがった。その声を聞きながら、遷己はひざから崩れ落ちた。銃を撃った反動で右肩の傷がより深く裂け、新たな痛みが遷己を襲う。
『オ・・・ノ・・・レ・・・!』
憎々しげに異形が唸る。遷己を睨みつけるひとつの瞳は憤怒に燃えていた。
鋭い爪が再び振りあげられる。逃げだそうにも、遷己の足は地面に根を張ったまま動かない。
痺れるような痛みに震えるひざは、遷己の体重を支えるにはあまりにも頼りなく、地面についた右腕は力を込めることすら出来ない。全身を襲う痛みと疲労感で、遷己は恐怖すら忘れていた。
ここまでか―・・・。覚悟して、目を閉じる。
ひゅっ、と風を切り、鋭い爪が振り下ろされる。しかし、その爪が遷己をとらえることは無かった。

2.

ザッ、と土を蹴る靴の音。風を切るもうひとつの刃の音。
ゆっくりと目を開いて見上げると、遷己を庇って前に立ちふさがる人物が見えた。黒い爪を白い刃で受け止め、眼前の敵を睨みつけるのはガラス玉のような大きな瞳。
白い刃が大きく半円を描くと、異形の爪が二本、三本と宙を舞う。激痛におののき、異形は後ずさりして二人から距離をとった。荒い息を吐きながら遷己は眼前に立ちはだかる、その人物の名前を呼ぶ。
「・・・瑞煕・・・。」
「遷己兄さん、大丈夫?ひどい怪我・・・。」
心配そうに眉をひそめ、瑞煕はかがみこんで遷己の顔をのぞく。彼女に体を支えられ、ようやく遷己は立ち上がった。
「俺なら・・・大丈夫だ。瑞煕、お前こそ怪我はないか?」
遷己の問いに、瑞煕は大きくうなずく。見たところ、彼女に目立った外傷はないようだ。安堵の息を吐いて、遷己は前方で唸りをあげる異形に視線を戻した。瑞煕も同様の方向を見やる。
「・・・兄さんは、少し休んでて。あとは、わたしがやる。」
そう言って異形を睨み、駆けだそうとする瑞煕の肩をつかんで制する。傷口がギリギリと痛んだが、そんなのに構ってはいられなかった。振り向いた妹の顔を正面から見やり、遷己は声を荒げる。
「バカ!ひとりで行って敵う相手じゃないだろ!無茶なことをするな!」
「遷己兄さんこそ!そんな傷で戦うほうが、よっぽど無茶してる。これ以上戦ったら、兄さんが・・・。」
瑞煕の瞳からぼろぼろと涙がこぼれる。瑞煕の肩から手を放し、遷己は諭すように口を開いた。
「だから大丈夫だって!・・・それに、俺はどうしてもあいつと決着をつけなきゃいけないんだ。あいつが・・・4年前、泉を殺した異形だ。だから・・・俺が戦わなきゃ。泉の仇を取りたいんだ。」
「あれが・・・4年前の、異形?」
背後の敵に視線を戻し、瑞煕が呟く。今まで見てきたなかで一番巨大な体格を誇るその異形は、痛みに耐え抜きながら赤い瞳で遷己と瑞煕を睨みつけている。
他の異形たちは皆、この個体を複製して造られたのだろう。そしてこの巨大な異形は四年間もの間、大事に仕舞われ育てられ、ここまでの強大な力を手に入れたのだ。
隻眼の異形が、怒りに震えながらその一歩を踏み出す。失った片腕の先からは異形の体液がぼとぼとと滴り落ちていた。同時に戦闘態勢に入りながら、瑞煕が口を開く。
「わたしも・・・一緒に、戦っていい?」
「ああ。それなら大歓迎。」
にやりと遷己が笑う。それを合図に、二人はバラバラの方向に走り出した。
遷己は異形の左側へ、瑞煕は右側へと回り込み、各々の武器を掲げる。異形が瑞煕に気を取られている間に、遷己は反対側の暗闇へと身を隠す。
乾いた銃声が一発。それと同時に異形の首元から体液が噴き出す。悲痛な叫び声をあげて、異形がぐるりと体を回した。正面から遷己をとらえ、無防備になった背中に白い刃が容赦なく切りかかる。斜めに大きく切り傷をつけ、瑞煕は地面へと降り立った。異形の片翼が支えるものを失くしてぶらりと垂れ下がる。もがくように翼をはためかせたが、鈍器のような重たい突風は、もはや異形の味方をしてはくれなかった。
『小娘・・・ヨクモ・・・!』
「えっ・・・?」
異形が言葉を発したことに動揺したのだろう、瑞煕の動きが一瞬止まる。その一瞬を、異形の鞭のような尻尾がとらえた。
ひゅん、と尾がなびく音。地面に叩きつけられた瑞煕の体に、異形の片足がのしかかる。体が軋む音がして、瑞煕は息を詰まらせた。
『コノママ踏ミ潰シテクレル・・・!』
「やめろ!!」
瑞煕をとらえている異形の足に狙いを定め、遷己が弾を放つ。その塊は黒い肉の奥深くに埋め込まれ、巨大な体が大きく傾いた。その隙に遷己は異形の足元に滑り込み、瑞煕を抱えあげる。

「瑞煕!大丈夫か!」
苦しそうに咳き込む瑞煕の瞳には涙が浮かんでいた。意識が途切れたのだろう、白い刃も今は元の腕の形に戻っていた。異形の爪が喰い込んだらしい、白衣の数か所から血が滲み出ている。
「ありがとう・・・兄さん。」
呼吸を整え、なんとかそれだけ言うと、遷己も真剣な表情でうなずいた。お互いの体を支え合うようにして立ち上がり、大分衰弱している異形に視線を向ける。
体のすべてを片方失い、異形はかなり不格好な体勢で地を這っていた。それでもなお、瞳に映した憎悪の念は消えてはいない。緊迫した空気も、なにひとつ変わってはいない。
緊張した面持ちで異形を見据えていた遷己の視界がぐらりと揺れる。頭が鉄球のように重くなり、支えきれなくなった体が前のめりになった。
「兄さん!?」
異変に気付いた瑞煕が慌ててその体を受け止める。息が荒い。額から流れた汗が頬を伝い、体全体が熱を発しているかのように熱かった。心配そうな瑞煕の体を押しのけ、遷己が絞り出すような声をあげる。
「・・・大丈夫、だ・・・。まだやれる・・・。」
「大丈夫じゃ、ない。怪我の手当て、しないと。今なら、あいつも手が出せない。」
異形を横目で見やりながら、瑞煕が再び遷己の体に手を回す。どこか落ち着いて手当てが出来る場所、異形の手の届かないところを探して周りをキョロキョロと見渡す。
住宅街や市街地から少し離れた、見晴らしの良いこの公園では、容易く身を隠せる場所は少なそうだ。異形の動向に細心の注意を払いつつ、瑞煕は遷己の体を支えながらゆっくりと距離をとる。
『待テ・・・逃ゲル気カ・・・!』
異形が低く唸りながら手を伸ばす。しかし、その爪は二人をとらえることなく宙を掻いた。
立ち上がろうにも負傷した片足がそれを許さず、異形はダルマのように地を転がる。周囲の草木をなぎ倒しながら暴れるその巨体を、瑞煕は冷たい瞳で見下ろした。
「いいから、そこで大人しくしてて。」
異形があらんかぎりの声を張り上げて吠える。様々な感情が入り混じった、悲痛な叫び声だった。
真っ直ぐ前を見据えながら、瑞煕は身を隠せる場所を探す。異形とも大分離れると、公園の入り口にある小さな売店が目にとまった。ひとまずあそこに身を隠そうと瑞煕が歩を向けると、中からひとりの中年女性が飛び出してくるのが見えた。驚きのあまり小さく悲鳴をあげ、瑞煕は足を止める。
「あれ、遷己ちゃん!やっぱ遷己ちゃんだ!」
「仲野さん・・・?」
重たい首をもたげて遷己が中年女性の顔を確認する。仲野は遷己の怪我を見やると目を白黒させて声をあげた。
「ちょっとあんた!ひどい傷じゃないの!手当てするから二人ともこっちにおいで!」
仲野は遷己と瑞煕の顔を交互に見ると早く早くと手招きする。困惑しながらも歩みを進める瑞煕に、遷己は小さく笑いながら「バイト先のおばちゃん」と告げた。合点がいったように、瑞煕も微笑みながらうなずいた。
扉の開かれた売店からは数人の声が漏れている。緊迫した外の空気とは対照的な賑やかな建物に、二人はゆっくりと足を踏み入れた。

第16話 その名は

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