1.

鈍色の倉庫街を全速力で駆け抜けながら、瑞煕はこみ上げる焦りを隠せないでいた。
町を襲撃する異形の討伐は、遷己が引き受けてくれている。どれだけ黒い屍を積み上げても、古斑がその攻撃の手を止めない限り彼の敵打ちは終わらないのだろう。不規則に聞こえてくる銃声が、彼の怒号のように聞こえた。
小型の異形がまるで羽虫のように瑞煕にまとわりつく。その羽虫を払うかのように切り捨て、注意深く辺りを見渡しながらも瑞煕は足を休めようとはしない。
白い生物が空中で舞うように戦っている。その周辺で一体どれだけの異形が散っているのか瑞煕には想像もつかなかった。

町の中心部に入ると、既にそこは逃げまどう人々で溢れかえっていた。悲鳴があちこちから上がり、まさに阿鼻叫喚といったところだ。
人々の上空を、何か探すように旋回している黒い影は、瑞煕に気付くと短く吠えて真っ直ぐに向かってくる。なるべく多くの異形を引きつけ、瑞煕は人通りの少ない路地裏へと誘導する。
そして、まんまと誘いに乗った異形たちは断末魔の雄叫びを上げる暇もなく次々と切り捨てられた。瑞煕の足元に黒い塊がごろごろと転がる。
息を切らせて、瑞煕が黒く広がった地面を見渡していると、不意にその上空から影が落とされた。はっと息を飲んで見上げた視界の隅に黒い影がちらりと映るその大きさからして、今足元に転がっている異形たちの倍くらいはあるだろう。慌てて路地裏を駆け抜け、影を追う。
目的もなく旋回していた小型とは違い、その黒き影は何かを追いかけているような迷いのない軌道で宙を滑る。
古斑の異形が目標と認識して狙うのは河拿研究所の人間だけだ。ならばあの異形の目前にいるのは遷己なのだろうか?
人の波を掻きわけようとした瞬間、瑞煕の耳に聞きなれた銃声が飛び込んでくる。しかし、その銃声は瑞煕が今追っている異形とは明らかに違う方向から響いていた。ぐるりと上空を見渡すと、遠く離れた場所で異形が一匹、二匹と撃ち落とされる。
間違いなく、遷己はあの場所にいる。だとしたら―・・・
カヤトの言葉を思い出す。嫌な予感がする。心臓が、はやく、いそげと急かすようにどくどくと脈打つ。
逃げまどう人の流れに逆らい、瑞煕は黒い影を追って走りだした。その異形の眼前にいる人物もまた、先ほどの瑞煕と同じことを考えているのだろう、人気の少ないほうへ、人の流れから少しでも離れたところへと誘導している。瑞煕としても好都合だった。
黒き異形がゆっくりと翼をたたむ。一瞬の隙も逃すまいと、瑞煕は素早く右手を変形させた。遠目に、異形を先導していた人物が見える。嫌な予感が的中して、瑞煕は目を見開いた。

見慣れた制服だった。ずっと会いたかった顔だった。
その人物は、民家の塀に背中を預けて、異形と対峙している。両者睨みあい、時の流れが止まっているかのような張り詰めた緊張感。
その感覚を、瑞煕は良く知っている。あの時、瑞煕を時の濁流から救い出し、身を挺して守ってくれた人物。その人物を、今度は瑞煕が守る番だった。
大きく息を吸いこみ、瑞煕は出来るかぎりの、精一杯の声を張り上げた。

「―・・・鴕久地くんっ!!」
その瞬間、四つの瞳が瑞煕を捉える。訪れた一瞬の隙。なりふり構ってなどいられなかった。
右腕を大きく降りかぶり、異形に切りかかる。胸を一文字に切り裂かれた異形は、耳をつんざくような悲鳴を上げて再び上空へと舞いあがった。その場から逃げるように必死に翼をはためかせるが、負傷した体では上手くいかないらしい。十数メートル離れたところで異形は下手な踊りを踊るように空中でもがき、やがて力尽きて地に伏せる。異形の両の目から赤い光がすう、と消えてその体はぴくりとも動かなくなった。
瑞煕はそっと閨登に向き直ると、腕の変形を解く。ボロボロに裂けた袖の下に、すらりと伸びた白い腕が戻る。元の姿を取り戻した右腕をそっと撫で、瑞煕は静かに口を開いた。
「・・・大丈夫、だった?」
「河拿さん・・・。」
目を見開いたまま、呆然とした様子で閨登が瑞煕の名前を呼ぶ。その表情は、驚愕なのか、恐怖なのか、その両方なのか。眉をひそめて瑞煕が顔を伏せる。
せっかくしゃべれるようになったのに、せっかく伝えられるようになったのに、いざとなると言葉が何も出て来ない。これでは前と何も変わらない。
ぎゅっと胸を押さえて、瑞煕は顔を上げる。・・・もう逃げるのは嫌だ。何も伝えられないまま終わるのは、嫌だ。
「・・・聞いて、欲しい。わたし・・・鴕久地くんに、どうしても伝えたいことが、ある。ひとつだけ、絶対に、誤解して欲しくないことがある。だから・・・手術した。声を、もらった。」
訝しげな表情で閨登が眉をひそめる。今まで、閨登が瑞煕に向けたことのなかったその顔に、瑞煕の心がちくりと痛んだ。その痛みをごまかすように、瑞煕は声を張る。
「わたし、鴕久地くんのこと、嫌いになんか、なってない。絶対に、嫌いになんかならない。・・・わたしのほうこそ、鴕久地くんに、嫌われたって、勝手に思いこんで、鴕久地くんのこと避けてた。・・・ごめんなさい。」
次から次へと言葉が溢れ、口にするたびに瑞煕の胸が軽くなってゆく。今まで言えなかった言葉は、伝えられなかった想いは、瑞煕の胸の中で相当な大きさに膨らんでいた様だ。
小さく首を横に振り、閨登が困惑したような表情を浮かべる。
「謝らないで、河拿さん。・・・僕のほうこそ、ごめん。河拿さんに、そんな誤解を抱かせるような態度をとってたんだね。本当に、自分が情けないよ。」
そう言って自嘲気味に笑う。その瞬間、瑞煕の中に何か温かいものが流れ込んできた。
いつだって閨登は、瑞煕に罪の意識を持たせまいとその笑顔の中に全て背負い込むのだ。こんな状況でも、それは変わらない。本当に―・・・
「・・・本当に、優しい。鴕久地くんは。その優しさに、わたしはずっと、助けられてきた。守られてきた。鴕久地くんは、ずっとわたしの特別だった。・・・わたし・・・。」
ずっと伝えたかった、大事なこと。大事にしまいすぎて、いつの間にかこんなに大きくなっていた気持ち。
閨登の目を真正面から見つめて、瑞煕は一言一句を大切に紡ぐ。
「わたし、鴕久地くんのことが好き。」
「っ・・・!」
閨登が息を飲む。見開かれた瞳は、瑞煕を捉えて離さない。
瑞煕が言葉を続ける。つい数日前までは、一番知られたくなかったこと。4年前あった出来事、自分の真実を、今は閨登に全て知って欲しかった。
その結果が、どっちに転ぼうとも。
2.

「・・・さっき、見たと思う。わたしの右腕は、あの黒い異形を倒すための、武器。そのために、わたしは造られた。・・・4年前、河拿研究所にいた、梶浦理子という人物。わたしは、その人から造られたクローン。…だから、月島カヤトは、わたしのことをずっと理子って呼んでた。四年前、理子はあの人の恋人だったから。」
顔を伏せ、瑞煕は自身の右腕をさする。閨登からの反応は返ってこない。
「・・・理子が死んで、わたしが造られた。わたしの兄さんも、そう。造られたクローンの人間。・・・こんなこと、信じてもらえないかもしれない、けど。本当のこと。」
瑞煕の声が震える。ひとつひとつ、真実を伝えるたびに瑞煕の胸が軽くなる。それと同時に、閨登にこの真実を背負わせ、巻き込むことが自分の傲慢のように思え、瑞煕は軽くなった胸の中にまた新たな石を放り込まれるような、重苦しい罪悪感が芽生えるのを感じた。目頭にこみあげる熱い雫は、その罪悪感からくるものなのだろうか。
顔を上げて閨登を見やる。視界はぼやけ、閨登が今どんな表情をしているのか瑞煕には分からない。
「・・・こんなわたし、だけど。鴕久地くんが、好きです。・・・これからも、一緒にいたい。一緒に・・・いて・・・。」
涙に紛れ、最後のほうは言葉にならなかった。大粒の雫をぽろぽろと零し、瑞煕は懇願するようにしゃくりあげる。
嫌いにならないで欲しい、見捨てないで欲しい、受け入れて欲しい。身勝手な願いなのは分かっているが、瑞煕はそれでもこみ上げてくる想いを止められなかった。それらの願いは全て言葉にはならず、涙として大きな瞳から零れ落ちる。
ザッ、と靴底がコンクリートを擦る音が聞こえる。視線を這わせる前に、瑞煕の体は温かい胸の中に投げ出されていた。背中に腕が回され、ぎゅう、ときつく抱きしめられる。
この温もりを、瑞煕は良く知っていた。
初めて会った日に、自分を異形の爪から庇ってくれた腕だった。冷たい倉庫の中で、自分を励ましてくれた体温だった。抜け殻のようになった自分を、研究所まで送り届けてくれた手のひらだった。
その温もりの主の名前を口にすると、瑞煕の胸の中からまた温かいものが涙と一緒に溢れ出す。自分はいつだって、この温もりに、この腕に守られてきたのだ。頭上から聞こえる閨登の声は、瑞煕を安心させるように優しく響く。
「河拿さん・・・ありがとう。本当のことを教えてくれて。すごく嬉しい。河拿さんは今までこの腕で、・・・こんな細い腕で、僕たちをずっと守ってきてくれたんだね。本当に、ありがとう。」
「鴕久地・・・くん・・・。」
その名を呼ぶと、瑞煕を抱きしめる腕に一段と力がこもる。心臓がどくどくと早鐘を打ち、顔も体も痺れるように熱い。恐る恐る、瑞煕は閨登の背中に腕を回すとその制服を掴んだ。ひやりとした風と内側から感じる熱が心地よく瑞煕を揺さぶる。
その温もりを体に覚え込ませるかのようにしばしの間抱き合い、二人はゆっくりと体を離す。そっと顔を上げると、瑞煕が一番見たかった笑顔がそこにはあった。慈しむような眼差しで、瑞煕も微笑み返す。

穏やかな空気を共有する二人の頭上を、黒い影が通り過ぎる。確認しなくても分かる。それは、鳥でも飛行機でもない。
「・・・行かなきゃ。」
名残惜しそうに閨登を見上げ、瑞煕はゆっくりと影が飛び去った方向へ足を向ける。その腕を、閨登は反射的に掴んでいた。
「河拿さん!」
その声に呼び止められ、瑞煕が振り返ると、心配そうに眉をひそめる閨登の顔があった。何かを言いだそうとして口を開き、閨登はそのまま言葉を飲み込む。目を伏せ、ゆっくりと掴んでいた腕を離す。
閨登自身も、自分がとった行動に困惑していたのだ。瑞煕が、あの黒き異形を討伐するために造られたクローン人間なのだと、さっき彼女自身の口から聞いた。そのための武器も、この目で確認している。
それでも心配だった。やっとで気持ちが通じ合った少女を、この愛おしい存在を危険な目にさらしたくはない。そんなワガママは、彼女が困惑するだけだというのに。
口をつぐんだままの閨登の内心を察したように、瑞煕がふふ、と鈴を転がすような笑い声をあげる。閨登が視線を戻すと、瑞煕は幸せそうな、無邪気な笑みを浮かべていた。
「大丈夫。あんなやつら、全然こわくない。わたしが一番こわいのは、鴕久地くんを失うこと。だから・・・鴕久地くんを守るためなら、わたし、なんだってできる。」
そう言って笑う彼女は、どこか無鉄砲な強ささえ感じられる。何を言っても、彼女を止めることは出来ないのだろう。あんなに強く抱きしめた確かな温もりが、腕に残っていた感触が、どこか現実味を帯びずにぼやける。まるでこのまま、瑞煕がいなくなってしまうかのような不安さえ感じさせた。悲鳴を上げ、泣き出しそうになる心をぎゅっと押さえて、閨登は口を開いた。
「・・・僕だって、同じだよ。河拿さんを失うことが何よりも怖い。・・・だから、絶対に無茶はしないで。そして、全部終わったら・・・僕からもう一度、告白させて欲しい。・・・約束してくれる?」
真剣な表情で閨登が問う。瑞煕が必ず戻るという確信が持てなければ、不安で胸が押し潰されそうだった。瑞煕も、その口元には笑みを湛えたまま真剣な眼差しを返す。そして、閨登の黒い大きな瞳を真っ直ぐに見つめながらしっかりとうなずいた。
「うん、約束する。絶対、帰ってくるから。・・・だから、安心して。」
そう言ってにっこりと笑う。冬の柔らかな日差しに照らされて、少女は幻想的な美しさを放っていた。
ふわりと風を受けて白衣がひるがえる。その影から白く輝く刀身が姿を現した。黒き異形を切り裂くための、少女の武器。そして、大切な人を守るための、少女の盾。
透き通るような髪をなびかせて、少女が駆けだす。乾いた靴音が段々と遠ざかってゆく。
その後ろ姿を、閨登は眉をひそめて見つめていた。
瑞煕がどれだけ大丈夫だと強くうなずいても、何百の約束を交わしても、きっとこの不安が取り除かれることはないのだろう。
どれだけ強く腕の中に閉じ込めても、瑞煕はするりと抜けて戦場へ赴くに違いない。
諦めにも似た気持ちで、閨登は上空を仰ぐ。幾分か数は減ったものの、未だ空を旋回するのは黒き異形の姿だけだ。
遠くから銃声のようなものが響いている。続いてあがる鳥とも獣ともつかぬ泣き声は異形の断末魔なのだろうか。
世界の終わりに、自分ひとりだけが取り残されたような感覚に、閨登は目を細めた。
目に映るものすべてが、耳に入るすべての音が、自分から切り離された、まるで画面の向こうの景色のように思える。
瑞煕がいない世界は、こんなに孤独で味気のないものなのだろうか。拳を強く握りしめ、閨登は瑞煕が消えていった通りに目を向ける。
閨登に出来ることは、ただ少女の無事を祈ることだけだった。

第15話 伝える

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