どれくらいの間眠っていたのだろう。カーテンの閉じられた白い部屋で瑞煕は目を覚ました。

頭がぼやけて、記憶をうまく辿れない。むしろ、辿る場所に記憶が無いのかもしれない。

ゆっくりと上体を起こして、体に手を当てる。見慣れない薄水色の病衣を着ていた。どうして、こんなものを着ているのだろう?回らない頭で考えても、すぐに答えは出てこない。

ぐるりと回りを見渡す。カーテンが閉じられているため若干薄暗くあるものの、光の加減からしておそらく今は昼頃だろう。見慣れた自分の部屋がやけに懐かしく感じた。

分かることからひとつずつ、今の状況を分析しようとしていると、不意に扉がノックされた。どうぞ、とも開いてます、とも返せずに瑞煕はただ扉を見つめる。ガチャリ、と音を立てて扉が開かれ、廊下から顔を覗かせたのは朝奈だった。上体を起こした瑞煕を見とめると、朝奈は目を見開いて駆け寄った。

「瑞煕ちゃん!目が覚めたんだ。大丈夫?どこも辛い所は無い?」

状況が飲み込めないまま、瑞煕はうなずく。良かった、と笑い朝奈は踵を返した。

「ちょっと待ってて、祷葵たちを連れてくるから!」

そう言って朝奈はバタバタと部屋を後にする。閉められた部屋の扉ごしでも、祷葵を呼ぶ朝奈の声がよく聞こえた。慌ただしい足音と共にその声も段々遠ざかってゆく。

相変わらず賑やかな人だ、と瑞煕は思わず笑みをこぼした。

「―・・・ふふっ。」

続いて聞こえてきた笑い声に、瑞煕は顔を強張らせ、咄嗟に喉を押さえる。今の声が自分から発せられたものだと気付くのに数秒の時間を要した。

瑞煕の胸がどくん、と高鳴る。喉に触れた指先が包帯の感触を伝えてくる。

「・・・あ・・・。」

やっと最後の記憶に辿りつき、瑞煕は声をあげた。

そうだ。朝奈に喋りたいと相談して、祷葵が医者を呼んでくれて、治療を・・・手術を受けたのだ。自分は今まで麻酔で眠っていたのだろうか?時刻を知りたくて瑞煕はベッドの脇に置いてある目覚まし時計に手を伸ばした。可愛らしいネコのキャラクターの腹部に表示されている時刻は11時半を指している。

・・・?医者が到着したのは確か午後一時だったはずだ。瑞煕が小首を傾げていると、バタバタと騒がしい足音がたくさん近付いてくるのが聞こえた。どうやら朝奈たちが戻ってきたらしい。

「瑞煕!」

バン、と扉を開けて飛び込んできたのは遷己だった。その後ろから祷葵、最後に朝奈と続き、プラスチックのネコを抱えたままの瑞煕の周りにぞろぞろと集まってくる。

「みん、な・・・。」

瑞煕が全員の顔を見渡して言うと、三者一様に驚愕の表情を浮かべた。

「瑞煕。喋れるのか?喉は痛まないか?」

「・・・うん。だい、じょうぶ。」

祷葵が尋ねると、うなずきながら瑞煕が笑う。初めて聞く、透き通るような瑞煕の声。まだ流暢には話せないのだろう、休み休み発せられるその音は、特に違和感を感じさせる事無く耳に入ってくる。

祷葵の両脇で、朝奈と遷己がふるふると小刻みに震えだした。不審に思って祷葵が左右に視線を送った瞬間、二人は弾かれるように飛び出した。

「瑞煕ーっ!」

「瑞煕ちゃん!」

前にも見た光景に、祷葵はやれやれ、と呆れたように笑う。あの時と違うのは、左右からぎゅうぎゅうに抱きしめられた瑞煕が小さく悲鳴をあげていることだ。

口ぐちに歓声を上げる遷己と朝奈にもみくちゃにされて、瑞煕の悲鳴はいつしか笑い声に変わっていた。鈴を転がすような声が場を一層賑やかにする。

「・・・ありがとう。遷己、兄さん。朝奈さん。」

「っ!!瑞煕が・・・瑞煕が俺の名前を・・・呼んで・・・!」

涙声になった遷己は自身の右腕を潤んだ両目に押し当てた。間髪入れずに押し殺した嗚咽が聞こえてくる。「大袈裟なのよ」と笑った朝奈の声も若干震えていた。

「・・・瑞煕。」

遠慮がちに祷葵が呼ぶと、瑞煕はすぐにその無邪気な笑顔を向けた。ベッドに一歩近付き、祷葵は瑞煕と視線を合わせるように腰をかがめる。

「私の名前も、呼んでくれないか。」

「ちょっと!ずるいぞ!」

両目から滴る雫もそのままに遷己が抗議の声を上げる。くすくすと笑いながら、瑞煕は目覚まし時計をベッドの上に置いて祷葵の手を両手でぎゅっと握った。

「ありがとう、祷葵。わたしが、喋れるのも。こうして、いられるのも、全部、祷葵のおかげ。ありがとう。」

満面の笑みを浮かべた瑞煕の瞳から、透明な雫が零れる。

喋れるようになったら、まず祷葵に伝えたかったのだ。自分を造ってくれてありがとうと。

朝奈から聞いた四年前の話で、自分の前身・・・理子は、無念の死をとげている。しかし、その意志を継いで再び現世に生を受けたこと、泉と・・・遷己と、再びこの研究所で過ごせることが嬉しいのだ。

ああ、とうなずいた祷葵の手がするりと瑞煕の手の中から抜ける。そのまま瑞煕に背を向けて、眼鏡をすこし浮かせ祷葵はその下の目を手のひらで覆い隠した。

「・・・すまない、ちょっと。」

「もー。涙もろいところは昔っから変わって無いんだから。」

目を潤ませた朝奈が、からかうような声を上げる。ようやく泣きやんだらしい遷己が、朝奈に素朴な疑問をぶつけた。

「そういえば、朝奈さんと祷葵っていつから知り合いなの?」

「あ、わたしも聞きたい。」

瑞煕も便乗して身を乗り出す。腕を組み、朝奈は虚空を睨みつけながら首をひねった。

「うーん・・・いつからなのかな?小学校か幼稚園か覚えてないや。気が付いたらいたんだよね。」

あっけらかんとして笑う朝奈とは対照的に、瑞煕と遷己は唖然としていた。やがて感激したような遷己が声を上げる。

「すげー!幼馴染だったんだ。知らなかったなぁ。祷葵のやつ何にも教えてくれないんだもん。」

「どーせ恥ずかしかったんじゃない?こんな可愛い幼馴染いるなんて知られたら何からかわれるか分からないもんね?」

つんつんと祷葵の背中をつつきながら朝奈が笑う。祷葵を一番からかっているのは自分だということにはどうやら気付いていない様子だ。あのなぁ、と溜息をつきながら祷葵が体を向ける。

「さっきから黙って聞いていれば言いたい放題言ってくれるじゃないか。」

「何よー。図星でしょ?」

「・・・まったく、お前達がいると全然話が進まないな。」

遷己と朝奈は顔を見合わせると、同時に子供のような笑みを浮かべる。そんな二人を一瞥すると、祷葵は瑞煕に向き直り本題に入った。

2.

「瑞煕。今、何時だか分かるか?」

忘れてた、という風に瑞煕は息を飲む。目覚まし時計を拾い上げると、ネコの腹を祷葵の方に向けて小首を傾げた。

「そうだ。・・・なんで?」

時刻は先程より15分ほど進んでいる。時計が止まっている、という訳ではないらしい。小さな咳払いをひとつすると、祷葵が事の経緯を説明し始めた。

「・・・実は、瑞煕が手術を受けたあの日から、もう5日経っている。瑞煕は5日間、ずっと眠り続けていたんだ。」

「・・・えっ?」

目を丸くして瑞煕が硬直する。携帯電話を開き、祷葵が表示された日付を瑞煕に見せる。12月7日・・・。間違いなく5日経っていた。ゆっくりと携帯電話から顔を上げ、瑞煕はそこにいる三人の顔を見渡した。

自分だけ5日前で時間が止まってしまっていて、何だか未来の世界へ飛ばされたような、はたまたパラレルワールドに飛んでしまったような、不思議な感覚が瑞煕を襲った。皆の顔は何故か別人のような、奇妙な5日間の壁を感じた。一通りの思考を巡らせ、瑞煕が口を開く。

「なんで・・・5日も、経ってるの?」

「あぁ。これはどうやら術後の形式らしい。手術を施してから5日間、喉は絶対安静なのだが、起きているとどうしても、ふとした瞬間に声を出してしまったり、唾を飲み込んだりということもあるだろう。5日間眠っていたほうが、確実に、安全に治療を終えることができる。」

一理ある、と納得したのか瑞煕は返す言葉もなく目覚まし時計に視線を落とした。自分が眠り続けていた5日間、ずっと時を刻み続けてきた時計を労わるように親指で撫でる。そして、はっと気付いたように部屋を見渡し、祷葵に視線を戻した。

「・・・お医者さまは?」

「鴕久地先生なら、瑞煕の手術が終わった後しばらくして帰られた。瑞煕によろしく伝えて欲しいと仰っていたよ。・・・それと、先生から瑞煕に伝言を預かっている。」

言葉を返さず、瑞煕はただ首を傾げた。一呼吸おいて、祷葵が先を続ける。

「今回の手術を鴕久地先生が行ったということは、息子さんには内緒にしておいて欲しいらしい。」

「なんで?」

「なんでもだ。」

不服そうに瑞煕が口を尖らせる。その光景は、さながら質問ばかりの幼子が、父親にたしなめられて口を噤んでいるようだった。ふふ、と笑い声を漏らして祷葵が瑞煕の頭をぽんぽんと撫でる。そして、傍らに立てかけてあった杖を手に取るとベッドから一歩離れた。

「おいで、瑞煕。昼ごはんの準備が出来てる。」

「そうだった!早く食べようぜ。瑞煕、今日の昼飯俺が作ったんだぞ。」

誇らしげに遷己が胸を張る。最初は味噌汁しか作れなかった遷己だが、最近は一通りの料理を覚えたらしい。頬笑みながら瑞煕がうなずく。

「うん。着替えてから行く。」

「オッケー。じゃあ準備して待ってるね。」

朝奈が左手の親指と人差し指で丸をつくる。皆が部屋を後にし、扉が閉まったのを確認してから瑞煕は纏っていた病衣に手をかけた。

4人で食卓を囲み、しばしの休息の時を過ごす。食後のコーヒーを啜りながら、遷己がすっかり平和ボケした口調で言う。

「しっかし、最近古斑のやつ大人しいじゃん。こないだ大層な脅しメールをよこした割には拍子抜けだよなぁ。」

「油断は禁物だぞ、遷己。今は朝奈が送りこんだ刺客でなんとか時間稼ぎが出来ているが、そろそろあっちも反撃してくる頃だろう。・・・私としても、もう決着をつけたい所だ。」

マグカップを机に置き、祷葵が小さく息を吐く。眉をひそめ、遷己が重い口を開いた。

「・・・そっか、祷葵たちはもうずっと戦い続けてきたんだよな。・・・どのくらいなんだ?4年間?」

確認するような遷己の問いに、祷葵は静かに首を横に振る。いつになく真剣な表情で朝奈が見つめる中、祷葵はゆっくりと、吐き出すように口を開いた。

「・・・・・・16年間だ。」

遷己と瑞煕が、同時に息を飲む。16年間、という途方もない歳月は、生まれてわずか5ヵ月の二人にとっておよそ想像のつかないものだった。

しん、とした空気が食堂を包み込む。誰も、何も口にしなかった。

そして、息をするのも忘れるほどの静寂の中、突然それは始まった。

四人の携帯電話が一斉にけたたましく音を立てる。四つの電子音の大合唱は、それだけでも異様な空気を醸し出していた。次々と携帯電話を開き、その小さな画面に目を止めた四人は皆、一様に驚愕の表情を浮かべる。

パタン、と携帯電話を閉じ、祷葵は一同の顔を見渡す。

「決着を・・・つける時が来たようだな。」

河拿研究所の前に、一台の赤い車が停まっている。その傍らに、祷葵と朝奈が。そして、車の前方には白衣を羽織った瑞煕と遷己の姿がある。皆、決意を固めた様な表情を浮かべて祷葵を見据えていた。

「・・・それじゃあ遷己、瑞煕。くれぐれも気をつけてくれ。」

「まかせろって!」

「祷葵と、朝奈さんも、気をつけて。」

口ぐちにそう言い、瑞煕と遷己は風のように走りだした。その背中が見えなくなるまで見送ると、祷葵は朝奈に促されるままに車に乗り込む。その上空を、白い異形が巨大な影を落として飛び去った。

「・・・いよいよ、だね。」

車を走らせながら朝奈が口を開く。その助手席で、祷葵は小さくああ、と呟いた。

眼鏡の下の瞳は、前方を見ているのかその向こうを見ているのか分からない。車道に視線を戻し、朝奈は車を更に加速させる。視界の隅に、黒き異形の影が見えた。

四年前、泉の命を奪ったあの異形と、遷己は決着をつけに行く。瑞煕は、理子の命を奪ったカヤトと、そして祷葵と朝奈は古斑と。先程四人の携帯電話を鳴らしたメールは、古斑からの二回目の宣戦布告だったのだ。

「今度こそ・・・。」

拳をぎゅっと握りしめ、祷葵が震える声を絞りだす。

「・・・今度こそ、套矢を連れて帰れるだろうか・・・。」

「なぁに弱気なこと言ってるの。大丈夫だよ、あたしもいるし、瑞煕ちゃんや遷己くんだっている。・・・これで最後だよ。やっと終わるんだ。」

祷葵の不安を吹き飛ばすかのように、朝奈は明るい口調で言葉を返した。そうだな、と笑う祷葵の声はどこか自嘲気味だ。横目で朝奈が祷葵の顔を見やると、彼はいつもの笑みを浮かべている。

一呼吸おいて、朝奈は口を開いた。

「・・・あたしはさ、凄いと思うよ、祷葵のこと。古斑と套矢にここまで冷静に向き合えるんだからさ。もし、暁良が同じことになったら、あたしは絶対に冷静じゃいられない。・・・だから、あんたは良くやってると思う。」

いつもの快活で強気な彼女からは想像つかない、しおらしい口調に祷葵は思わず朝奈を見やる。少し紅潮した頬は、暖房のせいだけではないだろう。

「・・・あたしは、祷葵のそういう所が好きだよ。」

そう言い放ち、朝奈は祷葵から顔を背ける。ふふ、と笑い声を上げ、「珍しいな」と祷葵が言えば、「懐かしい、でしょ」とぶっきらぼうな声が返ってきた。

二人を乗せた赤い車は、ひたすら真っ直ぐな道を走り続ける。やがて、人里離れた山の向こうに白い建物がその姿を現した。

第13話 ことのは

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