1.

瑞煕と朝奈が給湯室から戻ると、祷葵と遷己の話も終わっていた様だった。暖められた部屋にコーヒーの香りが充満している。

「お帰り、二人とも。話は済んだのか?」

祷葵の問いに、まぁね。と朝奈が返す。その隣で、瑞煕と遷己は顔を見合わせた。

自分の真実を知られてしまったこと、相手の真実を知ってしまったことが何となく気恥しくてお互い視線をさまよわせていたが、やがてどちらともなく頬笑み合う。過去がどうあれ、今二人が互いにとって必要不可欠な相棒であり、家族であることに変わりはないのだ。

祷葵に向かって簡単な報告を済ませていた朝奈は、そうだ。と手を叩いて付け加える。

「祷葵、相談があるんだけど、ちょっと良い?」

「ああ、どうした?」

祷葵が耳を傾けると、朝奈は瑞煕が喋りたいと願っていることをかいつまんで説明する。その話を受けた祷葵は、腕を組んで真剣な表情で唸り出した。

「・・・そうだな。私も何とかしたいとは思うのだが、何せ専門外なものでな。理子だった時の記憶が無い今もなお、喋れないままだということは最早精神的なものだけが原因ではないだろう。そうなるとますます手が出せない。」

瑞煕の顔が不安げにくもる。祷葵でも無理となると、自分は一生このまま喋れないままなのだろうか。押し潰されそうになる胸をぎゅっと押さえて目を伏せる。しばし考え込んでいた朝奈が思い出したように声をあげた。

「理子が入院してた時の、あのお医者さまは?あの時は精神的なものだったから、って事でしばらく様子見だったし、治療する前に理子も亡くなっちゃったから・・・。今だった何か手立てがあるかも。」

その言葉に、祷葵も納得したようだ。二度、三度とうなずいて同意の弁を述べる。

「それは良い案だ。あの方はこの町で一番腕の立つ先生だからな。私も良く世話になっている。早速連絡してみよう。」

そう言い残し、祷葵は杖をついて立ち上がる。通りすがりに瑞煕の頭をぽん、と撫でてそのまま部屋を後にした。良かったね。と朝奈が声をかけたが、瑞煕は期待と不安でごっちゃになり曖昧な反応しか返せない。

しばらくすると、携帯電話を片手に祷葵が廊下から姿を現した。開口一番に瑞煕に問いかける。

「瑞煕。明日来てくださるようだ。学校を休んでもらうことになるが、構わないか?」

しばしのためらいのあと、瑞煕はゆっくりとうなずく。どのみち、喋れない状態のまま、誤解を解けないまま閨登に会うのも心苦しかった。そうか、とだけ返し祷葵は電話の向こうの主に会話を戻す。よろしく頼みます、と話を閉めて祷葵は携帯電話を切った。すかさず朝奈が口を開く。

「どうだった?」

「ああ、引き受けてくださるようだ。治療する方法もあるらしい。明日の午後一番にここに見える。」

治るの?と三人同時に聞いていた。少し気押されながらも、祷葵は微笑んであぁ、とうなずく。

部屋の中がぱぁっと明るくなる。朝奈と遷己が両手を掲げて歓声をあげた。

「やったーー!!良かったね、瑞煕ちゃん!」

「瑞煕良かったな!治るんだぞ!」

右から朝奈が、左から遷己が瑞煕の体に腕を回す。両側からぎゅうぎゅうに抱きしめられて目をぱちくりさせていた瑞煕も、次第に状況が飲み込めたらしく顔を輝かせた。満面の笑みで何度も何度もうなずく。その様子を見ていた祷葵も、微笑ましそうに頬を緩めた。

長い一日が終わり、瑞煕と遷己が各々の部屋に戻ったのは日付が変わる頃だった。しん、と静まり返った研究所に、温かい余韻が残っている。

灯りのついた所長室に、祷葵と朝奈の姿があった。お互い白衣を脱ぎ、暖められた室内にはゆっくりとした空気が流れている。瑞煕と遷己に真実を伝えて肩の荷が下りたのだろう、祷葵はいつにも増して穏やかな表情を浮かべていた。

「瑞煕ちゃんと遷己くん、ちゃんと受け入れてくれて良かったね。」

ほっとしたような声で朝奈が言う。あぁ、と同意して祷葵も安心したような笑みを浮かべた。

遷己の方はひと悶着あったが、それは言わない方が彼のためだろう。話題を逸らすために、祷葵は少し笑みを含んだ声で口を開いた。

「・・・それにしても、朝奈とこうしてゆっくり話すのも久しぶりだな。」

何回か電話でやりとりはしていたものの、直接会って話すのは朝奈が異動してから初めてだった。三年半の時を振り返って、朝奈が声を荒げる。

「ホントだよ!この三年半、あたしがどれだけ・・・。」

「どれだけ・・・何だ?」

「・・・なんでもない。」

不機嫌そうに口を尖らせ、顔を赤らめた朝奈がそっぽを向く。ぶっきらぼうに放たれた言葉に、祷葵は訝しげな表情で首を傾げた。

賑やかな夜が更けてゆく。やがて、白い柔らかな光が研究所を淡く包み始めた。

翌日、瑞煕は朝からそわそわとせわしない様子だった。無理もない、この日悲願が叶うともあれば落ち着いてはいられないだろう。

部屋の掃除をしてみたり、風呂に入ってみたり、研究所をうろうろと歩き回ってみたり。そうして過ぎてゆく時間は、瑞煕にとって酷くもどかしく、ゆっくりとしたものだった。

やがて、時計の針は瑞煕が一番待ち望んだ時刻を指し示す。待ち人を迎えに祷葵が玄関へと出向く。間もなく、応接室で待機していた瑞煕のもとへ祷葵が一人の男を連れて戻ってきた。その場にいた遷己、朝奈も一様に男に注目する。

栗色の髪をしたその男は、毅然とした表情で一同を見渡した。祷葵が瑞煕に向き直り、男の紹介に入る。

「瑞煕。こちらが今日瑞煕を診てくださる鴕久地先生だ。」

「はじめまして。私が瑞煕さんの治療を担当させて頂く鴕久地庄吾です。よろしくお願いします。」

丁寧な口調でそう告げると、庄吾は瑞煕に向かって一礼する。朝奈もすかさず礼を返すが、瑞煕と遷己は聞き覚えのある名字に気をとられ、ひとつタイミングがずれた。

顔をあげた瑞煕に庄吾が名刺を手渡す。その名刺に視線を落とし、瑞煕は息を飲んで目を見開いた。後ろから名刺を覗き込んだ遷己も同様のリアクションを示す。聞き覚えのある名字だけではなく、見覚えのある名字でもあったのだ。

「・・・もしかして閨登くんの・・・?」

思わず遷己はそんな質問を口にしていた。はっとした表情で瑞煕が遷己を見やり、続いて庄吾に視線を移す。ああ、と驚いたような声を漏らして庄吾は笑顔を浮かべた。

「驚いた。息子のことを知っているのですか?」

「はい。妹が閨登くんと同じクラスで、仲良くしてもらってるみたいなんです。俺も何度か会ったことありますよ。」

瑞煕の肩に手を置いて遷己が説明する。これには祷葵も初耳だ、とばかりに目を丸くした。朝奈も興味深さそうに笑みを浮かべながら瑞煕を見やる。様々な視線をあちこちから感じ、瑞煕は頬を赤らめて小さく、俯くようにうなずいた。やがて、合点がいったという風に庄吾が声をあげる。

2.

「息子のクラスに転入してきた生徒というのは、あなただったんですね。道理で聞いたことのある名前だと思いました。」

「瑞煕のこと、知ってたんですか?」

やりとりを見ていた祷葵が口を開く。庄吾は祷葵に体を向けるといえ、と首を振った。

「学校からのお知らせプリントに書いてあったんですよ。息子の友達ならば、気合いを入れて治療しないといけないですね。」

祷葵より大分歳が上であろう庄吾の口から、「お知らせプリント」という似つかわしくない単語が出てきたことが妙に微笑ましくて、その場にいる皆の頬がゆるんだ。毅然とした態度と、丁寧な口調はたまに冷たい印象を放つが、やはり庄吾も人の親なのだと実感する。数分の談笑を終えると庄吾は早速瑞煕の診察に入った。

瑞煕の体調や過去の病歴をなどの簡単な質問を繰り返し、瑞煕はそれに対して首を振って答える。そして、瑞煕の喉の奥をライトで照らし、最後に体温を測って診察は終了した。うんうん、と頷いて庄吾はカルテから顔をあげる。

「問題ないですね。このまま手術にうつりましょう。祷葵さん、無菌室を貸して頂けますか?」

「ああ。用意してますよ。」

なんてことのないような、涼しい顔で交わされた会話だったが、瑞煕を仰天させるのには十分だった。治療とは聞いていたが、よもや即日手術など思うわけもなく、瑞煕の不安が一気に募る。

今にも泣き出しそうな顔の瑞煕を見て、庄吾がなだめるように笑った。

「大丈夫ですよ。手術といっても簡単なもので、瑞煕さんが声を出すためのちょっとしたお手伝いをするだけです。すぐに終わりますし、体への負担もないですよ。」

庄吾の顔を、瑞煕はガラス玉のような瞳でじっと見つめる。そうやって自分を落ち着かせる声のトーンや笑顔が、閨登ととてもよく似ている。確かな血の繋がりを感じて、瑞煕は昨日会ったはずの閨登の顔が懐かしく感じた。こくり、とうなずく瑞煕を見て、庄吾は安心して笑い、祷葵と連れ立って応接室を後にした。体中の力が一気に抜け、瑞煕はへなへなとソファーに崩れ落ちる。

その隣に腰を下ろした遷己が、心配そうな表情を朝奈に向ける。

「な、なぁ朝奈さん。大丈夫なのか?手術って、ここでやんの?」

「だぁいじょーぶよ。あのお医者様のことは、あたし達も信頼してるし、ここの事も良く知ってる。それに、ここは生物学の研究所なんだ。無菌室くらいあるよ。」

笑いながら朝奈が答える。緊張と不安を隠せない様子の瑞煕も、覚悟を決めたようだ。静かに息を吐いてその時を待つ。やがて応接室に向けてゆっくりと足音が近付き、瑞煕の鼓動が跳ね上がった。扉が開かれ、廊下から庄吾が姿を現す。

こちらへ、と促され瑞煕は腰をあげる。そして、遷己と朝奈に向き直ってうなずいてみせると、庄吾に続いて部屋を後にした。ひんやりとした廊下の空気が、瑞煕の体を更に強張らせる。

瑞煕と歩幅を合わせ、ゆっくりと廊下を進みながら庄吾が口を開いた。

「瑞煕さん。息子は・・・閨登は、学校ではどんな様子ですか。元気でやっていますか?」

その言葉に、瑞煕は顔をあげる。小さく頬笑みを浮かべている庄吾と目が合った。父親として純粋に気になるところなのだろう。瑞煕も微笑んでしっかりとうなずく。そうですか。と庄吾は安堵の息を吐き、そしてやや自嘲気味にぽつり、ぽつりと話し始めた。

「・・・私は、家ではほとんど息子と会話をしません。厳しく育てすぎたんでしょうね、あの子はすっかり怯えきってしまって。・・・だから、息子の友達に会うのもこれが初めてなんですよ。」

その話に、瑞煕は訝しげに眉をひそめた。確かに少々冷たい印象を受けるものの、話していくうちに庄吾の優しさというものを十分に感じ取れた。親子間の不仲に悩むほどの、厳しい教育をしている姿が想像つかない。深刻な表情で、心配そうに眉をひそめて押し黙っている瑞煕を見て、庄吾が笑いながら話を続ける。

「・・・でもね、最近息子が何だか明るくなった気がするんですよ。丁度、瑞煕さんが転入してきたあたりからかな。こんな可愛らしいお友達が出来たなんて、私も安心しました。」

そう言って庄吾は足を止め、瑞煕に体に向ける。小首を傾げて瑞煕が見上げると、庄吾は、瑞煕もよく知っている柔らかい笑顔を浮かべた。

「・・・瑞煕さん。これからも閨登と仲良くしてやってください。よろしくお願いします。」

その言葉に対する瑞煕の反応に迷いはなかった。笑顔で庄吾の目をしっかりと見つめ返してうなずき、両手でガッツポーズを作る。ありがとうございます、と庄吾が笑い二人は廊下の真ん中でしばし笑顔を交わした。

やがて、廊下の先に「無菌室」と書かれたプレートが姿を現した。この辺りに来るのは瑞煕も初めてらしく、もの珍しそうに周りを見渡す。鈍色の大きな二枚の扉を、庄吾は何のためらいもなく押しあける。観音開きに開かれた視界の先に、白い空間が広がっていた。

純白のロッカーと仕切りに使うのだろうカーテンが左右にいくつも並び、その奥にもう一つ大きな扉が待ちかまえている。扉の中心に取り付けられた窓から見えるその先には、白い霧のようなものが立ち込めていた。呆然とする瑞煕に、庄吾が声をかける。

「では瑞煕さん、一番ロッカーの中に服がありますから、それに着替えて中に来てください。」

そう告げて庄吾は先に扉を開け、白い霧の中へと消えてゆく。一人取り残された瑞煕は少し不安そうに眉をひそめ、周りをキョロキョロと見渡しながら一番ロッカーを探した。

ロッカーの中には、薄水色の浴衣のようなものが綺麗に畳んで入っていた。それを掴んで広げてみると、左胸の部分に病院名が刺繍されてある。病衣だ、と気付くと今から始まることが現実感を増す。ごくりと唾を飲み込み、瑞煕は恐る恐る着替え始めた。

白い霧をくぐった先にはまた扉があり、それを押しあけると今までとはうってかわった冷たい部屋に出た。天井も壁も床も真っ白なのは今までにも見てきたのだが、天井から吊り下げられた大きなビニールカーテンや部屋に並べられた長方形の台。モニターや機械が乱雑に置かれ、部屋全体から発せられる空気が瑞煕の胸をざわざわと撫で上げた。ひとつの台の傍で、二人の手術着をまとった人物が瑞煕に注目していた。帽子の中に髪をまとめ、マスクをしていて一見判断に迷ったが、すぐにそれが祷葵と庄吾だと気付く。

「瑞煕。こっちにおいで。」

安心させるように、祷葵が柔らかい声で瑞煕を呼ぶ。うなずいて瑞煕はゆっくりと二人に近付いた。

その台は、庄吾が持ってきたのだろう手術器具に囲まれ、他とは違った異様な雰囲気を醸し出している。何もかも見たことの無いもので、瑞煕はひとつひとつ視線を這わせた。しかし、それも庄吾の一言であえなく打ち切られる。

「それでは、スリッパを脱いでこの台に横になってください。」

言われるままに台に腰を下して体を倒す。自分を見下ろす天井と照明、そして祷葵と庄吾の顔があった。大丈夫だ、と言う風に祷葵はうなずく。マスクで表情は読み取れないが、眼鏡の奥の瞳は笑っているようだった。その反対側で庄吾が手術の準備を始める。

やがて、瑞煕の視界は白くかすみ始める。そしてそのまま、意識は混濁の中へと落ちていった。

第12話 面影

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