甘いココアの香りが胸を満たす。さっきまであんなに霞がかっていた脳は、朝奈の話を一言一句聞き漏らすまいとフル回転している。

瞬きも忘れるほどの緊張感の中、朝奈が口を開いた。

「・・・瑞煕ちゃんが言葉を持たないのは、四年前のある事件が原因なんだ。単刀直入に言うと、瑞煕ちゃんは梶浦理子、という子から造られたクローンの人間。そして、その梶浦理子は四年前に声を失っている。」

瑞煕の耳に、聞き覚えのある名前が飛び込んでくる。梶浦理子・・・。カヤトと名乗った男が、何度も自分をその名前で呼んでいた。それも、自分が理子のクローンなら納得がいく。

瑞煕がうなずくのを見て、朝奈は話を続けた。

「・・・理子は今から六年前、天根泉と一緒にこの河拿研究所で働き始めた若い研究員だった。あたしも祷葵も、二人のことがすごい可愛くてさ。本当の弟や妹みたいに思ってたもんさ。そして、二人が研究所に来てから二年後・・・今から四年前、理子に恋人が出来たんだ。」

四年前。理子の恋人。この二つから連想される人物はただ一人だった。「月島カヤト」、瑞煕の脳裏に黒髪の男の顔が浮かんだ。

「瑞煕ちゃん、月島カヤトを知ってるの?」

目を丸くして朝奈が問う。いつの間にか口が動いていたらしい。瑞煕は頷き、帰宅途中でカヤトと会ったことを伝えた。深刻な顔で朝奈が唸る。

「やっぱり・・・。古斑が何かアクションを起こすなら、まず瑞煕ちゃんを狙うに決まってる。四年前もそうだった。古斑は最初に理子を狙ったんだ。理子と恋人関係になったカヤトは、ある日でかけたドライブで、大きな事故を起こして・・・理子を殺そうとした。最初から、そのつもりで理子に近づいたんだ。」

マグカップを握る朝奈の手にぎゅっ、と力がこもる。月島カヤトに対する怒りが蘇ったのだろう、声もかすかに震えていた。自身を落ち着かせるために大きく息を吐き、先を続ける。

「病院で理子は全部知った。月島が自分に近付いた本当の理由。事故が起こった理由。・・・そして、その日から理子は声を失った。お医者様も、精神的に強いショックを受けたからとしか言わなかった。・・・理子はどんどん衰弱していって、そのまま・・・。・・・瑞煕ちゃんが喋れないのは、言葉を失った理子から造られたから。喋り方を知らないからかもね。」

瑞煕は眉をひそめてその話をじっと聞いていた。カヤトが自分に行った数々の許されざる行為。そんな事をしでかしておきながら、あんな飄々とした態度で再び瑞煕に近付いたのだ。瑞煕の心の中に、カヤトに対する憎しみがふつふつと湧き上がる。それは朝奈も同じだった。怒りに震えるその声は、古斑を摘発するようでもあった。

「理子が入院してすぐくらいだった。古斑が研究所に、あの黒い化け物を送り込んできたんだ。あたしも祷葵も、あんな化け物を見るのは初めてで、何も太刀打ちできやしなかった。・・・そして、あの化け物は泉の・・・。泉の命を奪って、満足そうに帰って行った。

・・・古斑は、どうしたら祷葵が一番傷つくか、一番追い詰められるのか良く知っていたね。だから祷葵が大切にしていたものを・・・理子と泉を奪ったんだ。」

まくしたてるように一気に言いきり、朝奈は再び長い息を吐く。小さく震えている朝奈の様子を見ていると、彼女も祷葵と同じように理子と泉のことを大事に想っていたということが窺える。

次に口を開いた朝奈は、物憂げな表情で目を伏せていた。

「・・・死んだ人間のクローンを作るなんて、正気の沙汰とは思えないけど・・・。泉が、もう一度理子と一緒にここで働きたいって言ったのを聞いて、祷葵の迷いも消えたみたいだね。もともと、生物のクローンについて研究していた祷葵とあたしは、早速理子と泉のクローンを作ることにした。もちろん、それを知った古斑も必死で妨害してきた。だから、祷葵はあたしたち研究員を全員他の研究所に避難させて・・・そして、一人でずっと理子と泉のクローンを…瑞煕ちゃんと、遷己くんを守り抜いてきたんだ。」

瑞煕の中で、大きなパズルが完成したようなそんな感覚がした。

自分たちが作られた理由、自分たちの真実。この研究所の真実。瑞煕の知りたかった事が、次々と情報として入ってくる。

すっぽりと抜けていた瑞煕の記憶が、過去が、朝奈から放たれた言葉で埋まってゆく。それはもともと瑞煕の一部だったかのように、綺麗に彼女の中に収まった。

瑞煕の心の中が、温かいもので満たされてゆく。朝奈の口から語られた真実はどれも衝撃的なものではあったが、それ以上に真実を知る事が出来た喜びのほうが大きかった。

朝奈の目を真っ直ぐに見て、瑞煕は柔和な笑みを浮かべる。「ありがとう」と口を動かすと、朝奈もふふ、と笑い声を漏らした。

「強い子だね、瑞煕ちゃんは。でもまだ根本的な問題が残ってるよ。どうやったら瑞煕ちゃんが喋れるようになるのか、それを考えなきゃね。」

忘れてた、と言わんばかりに瑞煕がぽんと手を叩き、首をひねる。精神的なショックから喋れなくなったのなら、何かのきっかけで再び声を取り戻すかもしれない。同じように考え込んでいた朝奈も、お手上げといった風に肩をすくめた。

「駄目だぁ。あたしも医者じゃないからこういうのは専門外だよ。あとで祷葵に相談してみよっか。・・・あたしも応援するよ、瑞煕ちゃんの恋。」

頬を赤く染めてはにかんだように笑い、瑞煕も小さくうなずいた。朝奈に頭をなでられ、胸の中がくすぐったくなる。いたずらっぽく笑いながら、朝奈が身を乗り出した。

「ねぇねぇ、瑞煕ちゃんの好きな人ってどんな感じの子なの?」

耳まで赤くして、瑞煕が目を見開く。両手で頬を押さえるとさっきまで握っていたマグカップにも負けないほどの顔の熱を感じた。どんな感じ、と言われ真っ先に頭に浮かんだ言葉を朝奈に伝える。

「優しい、かぁ。やっぱそれが一番大事だと思うよ。良いなぁ、どんな子なんだろ?うまく行ったら今度紹介してね!」

その言葉に、瑞煕はおずおずとうんずいた。うまく行く、という確信も自信も無いためハッキリとした反応を返すことができない。好きな人に、想いを伝える。でも伝えるのは想いだけでは無いのだ。瑞煕の過去も、真実も全て伝えて、それでもなお受け入れてくれるという自信が無い。信じたいのに信じきれない、臆病な自分が歯がゆくて瑞煕は一瞬表情を曇らせる。そんな瑞煕の頭をぽんぽんと優しく叩き、朝奈はココアを飲み干す。大丈夫だよ、とそう言ってくれているような気がして瑞煕も微笑む。

「じゃあ、祷葵たちの所に戻ろっか。あっちも多分話が終わった頃でしょ。」

瑞煕も笑顔で同意する。廊下を歩く朝奈の横顔を見上げながら、瑞煕は自分の中に溢れ出る温かいものを感じていた。初対面のはずの朝奈に、ここまですんなりと心を開けたこと。恋愛の話をするときの、いたずらっぽく笑う朝奈の顔が、何だか懐かしく感じたこと。自分の中に確かに理子がいることを瑞煕は感じていた。

四年前も、自分はこうやって朝奈といろんな話をしたのだろう。太陽のように笑う彼女が大好きだったのだろう。

パタパタと廊下を蹴りながら、瑞煕は満面の笑みを浮かべた。

部屋にコーヒーの芳しい匂いが立ち込める。白いマグカップをそっと机に置き、祷葵は息を吐いた。遷己もそわそわとコーヒーを啜りながら、時折瑞煕が出て行った扉を心配そうに見つめている。涙など滅多に見せない彼女が、あそこまで泣き腫らしていたのだ。よっぽどの事があったのだろう。

「・・・なぁ祷葵。瑞煕のやつ大丈夫かな。何があったんだろ?」

なかなか話し出そうとしない祷葵に痺れを切らしたのか、遷己が先を促すように口を開いた。少し考え込むようなそぶりを見せた後、祷葵はようやく重たい口を開く。

「・・・今日、私と朝奈に古斑から一通のメールが届いた。四年前のおさらいをしよう、とそれだけ書いてあるメールがな。瑞煕の身に何かあったのだとしたら、おそらくそのメールと関わりがあるだろう。」

「四年前の・・・おさらい?」

訝しげに遷己が眉をひそめる。四年前、自分たちはまだ存在していない。それなのに、その四年前のおさらいとやらにどうやら自分達は深く関係しているらしい。

ひと呼吸おいて、祷葵は話を続けた。

「・・・天根泉。それが四年前の、お前の名前だ。一度は看板を失った河拿研究所が、再び動き出したのは私が二十歳の時だった。その時に入ってきた研究員が天根泉と梶浦理子・・・お前と、瑞煕だ。」

そこで祷葵は言葉を切る。遷己はただ、その話を黙って聞いていた。言葉が出なかった、といった方が正しいかもしれない。祷葵の話はあまりにも現実味にかけ、ふわふわとしていて実感がない。しかし、自分の本当の名前が天根泉だと、瑞煕の本当の名前が梶浦理子だと言われた時。聞き覚えの無い名前のはずなのに何故かひどく懐かしく感じた。この既視感のようなものを、五か月前に祷葵に対して抱いていたことを遷己は思い出していた。

「・・・泉と理子は、若いながらにとても良く働いてくれた優秀な研究員だった。私にとって二人は本当の弟と妹のように思えた。河拿研究所にとって、私にとってかけがえのない存在になっていたんだ。・・・だが、四年前。泉と理子の存在が邪魔になった古斑が遂に行動に出た。」

言いにくそうにそこで口をつぐみ、祷葵は震える息を吐いて目を伏せた。遷己も依然、貝のように押し黙ったままだ。祷葵に話の先を促すには、沈黙が一番効果があることを知っているのだろう。そしてその期待通り、祷葵は言葉を探しながらゆっくりと口を開いた。

「・・・最初に、古斑が狙ったのは理子だった。古斑は月島カヤトという男を使って、理子をたぶらかした。・・・月島と恋人関係になった理子は、ある日車でドライブに出かけ、そこでヤツは車が大破するほどの事故を起こした。もちろん、わざとだ。古斑は、理子を消すために・・・。」

祷葵の手が震えている。声が震えている。

当時の事を思い出したのだろう。その痛みに耐えるように祷葵は目を閉じた。こんな状態の祷葵に話の続きを促すのは酷なことのように思えた。しかし、遷己は依然として沈黙を貫いている。

続きは容易に想像できた。そして、聞きたくなかった。しかし遷己は知らなければならない。四年前何があったのかを。瑞煕の、自分の真実を。

しばらくの沈黙の後、祷葵は震える声で続けた。

「・・・理子は、大怪我を負った。あいつは救急車が到着するまでのあいだ、ずっと月島の怪我の手当てをして励まして・・・。助かるはずだった理子の怪我も、救急が来た時には既に致命傷だった。月島の真意を知った理子は、事故のショックも相まって声を失った。病院のベッドの上で理子は段々衰弱して、そして・・・もう助からなかった。」

「っ・・・!!」

思わず息をのむ。瑞煕の前身である理子が、もう既にこの世にはいない。ならば瑞煕は何者なのだろうか?目を見開いて祷葵の話の続きに耳を傾ける。

「・・・理子が入院したすぐ後に、古斑は次の刺客を送り込んだ。・・・それがあの古斑のペットだ。」

黒き異形の姿が遷己の脳裏に浮かんだ。理子の末路を知った後では、次に語られる事が嫌でも想像できてしまう。ぐっ、と力をこめて両手を握りしめ、遷己は次の言葉を待った。

「古斑のペットがこの研究所に攻め込んできたとき、私たちは何も出来なかった。何せ、あんな怪物を見るのは初めてだったからな。・・・ヤツの狙いは泉だった。・・・どうすることも、出来なかった。」

直接的に言わなくとも、祷葵の言葉の随所から当時の光景がよみがえるようだった。そして、自分の末路が・・・四年前の自分自身である「泉」がどうなったのか察して遷己の手が震える。

「・・・泉は最期に、理子ともう一度この研究所で働きたいと、そう言ってくれた。もちろん私も同じ気持ちだった。泉と理子を同時に奪われて、古斑に対する憎しみも募った。・・・このまま引き下がっては二人の死が無駄になってしまう。…だから、私は二人のクローンを作ることにしたんだ。」

「・・・。」

遷己の口は固く閉ざされている。しかし、話の先を促すためではない。答えが見えてしまって言葉がでないのだ。衝撃的な真実に、頭の回転がついていかないのだ。優秀だと言われた泉に比べて、自分の頭は相当出来が悪いらしい。目を見開いたまま遷己が黙りこんでいると、祷葵が重々しい口調で話を続ける。まるで自身の胸の内をすべて吐き出すようだった。

「・・・この四年間で、泉と理子のクローンは立派に成長した。もちろん、その間も古斑の襲撃は続いた。この脚も、古斑の異形にやられたものだ。・・・私自身はすでに太刀打ち出来なくなってしまっていた。このままでは四年前の繰り返し。だから私は、泉と理子のクローンに、身を守るための術を与えた。もう二度と、死なせないために。…兄弟を失うのは、もうたくさんだった・・・。そして目覚めたのが遷己と瑞煕。お前たちだ。」

祷葵の言葉が、ゆっくりと遷己の中に入ってゆく。話を最初から反芻し、徐々に吸収してゆく。

そして祷葵の話がすべて理解できた瞬間、遷己の胸の中の霧が晴れ渡った。

遷己は覚えていなくても、遷己の中の天根泉が覚えていたのだ。研究所のこと、祷葵のこと、瑞煕のことを。

最初、腕を変形させられて戦ってほしいと言われた時、瑞煕がすんなりと受け入れていた理由。あれもおそらく瑞煕の中の理子が頷いたのだろう。そして、自分が感じた祷葵に対する恩のようなもの。初対面のはずなのに、何故か恩返しをしなければならないような、駆り立てられる気持ち。あれは、自分が死に際に伝えた願いを、祷葵が叶えたから。それに対して泉が感謝の念を抱いたのだろう。だから、遷己自身も祷葵を受け入れられたのだろう。

「・・・祷葵、ありがとな。」

気付いたらそう言っていた。祷葵がゆっくりと顔をあげる。精神的に辛い話を長々と話していたからだろう、祷葵の顔からは疲労の色が窺えた。そんな祷葵を労うように、遷己は静かな笑みを浮かべた。

「・・・俺も瑞煕も、ずっと自分が何者なのか知りたかった。ただ造られただけ、って訳でもなさそうだったし、祷葵も何か隠している感じだったしさ。…だから、話してくれてありがとう。」

「・・・遷己・・・。」

少しほっとしたような声で、祷葵が声を漏らす。うん、と頷いて遷己は困ったように眉をひそめた。

「そう。俺は遷己だ。泉じゃない。・・・瑞煕みたいに祷葵の研究だって手伝えないし、泉だった時のことも全然覚えてない。・・・泉の代わりにだって、なれないかもしれない。・・・俺、失敗作なのかな?・・・ごめんな。」

遷己の目から涙が一粒、二粒とこぼれ落ちる。何故こんな自虐的な気持ちになるのだろう、胸がギリギリと痛む。謝罪の言葉が止まらず、遷己は顔を伏せた。

祷葵の研究を手伝っている瑞煕を見て、何も出来ない自分がもどかしく感じていたのかもしれない。ずっとずっと、自分は落ちこぼれなのだと心のどこかで責めていたのかもしれない。そして、祷葵が優秀だと語った、自分の前身である「天根泉」。優秀な研究員を取り戻したくてクローンを作ったのなら、さぞかし落胆しただろう。今まで遷己が抱え込んできた自責の念の、その器を決壊させる最後の一滴がこの四年前の話だったのだ。

ぎし、と音が鳴る。スリッパが床を擦る音がゆっくり遷己へと近付く。遷己が顔をあげると同時に、その体は祷葵の胸の中にしっかりと抱きとめられていた。遷己の背中と頭に祷葵の手が回され、苦しいくらい力強く抱きしめられる。遷己の頭のすぐ上で、震える祷葵の声がした。

「・・・何言っているんだ。いくらクローンでも、お前と泉がまったく別の人間なのは当たり前だ。死んだ人間を生き返らせたわけではないのだからな。・・・だから、そんな事気にしなくていい。私はお前たちに、泉と理子が生きられなかった人生の続きを生きて欲しいんだ。もちろん、遷己と瑞煕として。・・・泉は泉で、遷己は遷己だ。お前に、泉の代わりをさせるつもりは無い。・・・だから、もう泣くな。辛い思いをさせてすまなかった。」

ぎゅう、と祷葵の腕に力がこもる。遷己の胸の中でがちがちに絡まったいくつもの糸を、ひとつひとつ解かれるような感覚だった。最後の糸を解くように、遷己が恐る恐る口を開いた。

「・・・俺、このままでいいの?・・・これからも、ここにいていいのかな。」

「あぁ、もちろんだ。お前は、私の大事な家族だからな。」

「俺、頭悪いから祷葵の研究とか手伝えないよ?」

「構わない。言っただろう、泉の代わりをする必要はない。自分で道を選び、好きな様に生きて欲しい。・・・もちろん、古斑と決着がついてからな。」

小さい子どもをあやすように、遷己の背中をぽんぽんと叩きながら祷葵が笑う。

それにつられて、遷己もようやく安心したような笑みを浮かべた。

第11話 四年前 Side.M&S

投稿ナビゲーション