1.
・・・つめたい。頭も、顔も、手も、足も、胸も全身が凍りついて何も考えられない。
目前に迫るカヤトの手や、自分を守るような閨登の腕が全て現実離れして見えた。スローモーションで過ぎてゆく光景。何も聞こえず、視界は白に染まってゆく。
緊迫した空気を打ち破って、けたたましい電子音が鳴り響いた。ガン、と軽く頭を殴られるような錯覚とともに、霧に埋もれかかった瑞煕の意識が現実に引き戻される。軽く舌打ちをし、カヤトは瑞煕に伸ばしていた腕をそのままポケットにスライドさせる。二人を一瞥した後、カヤトは携帯電話を耳に押し当てた。
「・・・俺だ。」
不機嫌そうなカヤトの口から不機嫌そうな声が漏れる。しばしの沈黙の後、カヤトの顔がみるみる険しくなった。その表情からは若干の焦りさえ感じられる。すぐ戻る旨を伝え、カヤトは携帯電話を閉じる。そして、未だ呆然と動けないでいる瑞煕と閨登に向き直るとふん、と鼻で笑って見せた。
「運の良いやつらだねぇ。ま、良いか。またね、理子。カレシくんも。」
人の良い笑顔を浮かべ、カヤトは踵を返して瑞煕と閨登に背を向けた。ひらひらと背中越しに手を振りつつ去ってゆく。カヤトの姿が完全に見えなくなると同時に、瑞煕の緊張の糸が一気にほどけた。全身の力が抜けてひざから崩れ落ちそうになった瑞煕の身体を閨登が慌てて支えた。
「河拿さん!大丈夫?」
なんとか小さくうなずいて見せるも、瑞煕の身体は小刻みに震えて止まらない。
「元」梶浦理子、と自分を呼んでいた男。自分も知らない自分の過去を、よりにもよって一番知られたくない人物に聞かれてしまった。
カヤトの口から放たれた言葉が全て頭をぐるぐると駆け巡る。明瞭になった思考に、それはあまりにも重すぎた。理解できない、抱えきれない、気持ち悪い、もう何も考えたくない。
髪の毛をくしゃくしゃにかきあげ、頭を抱えて瑞煕は声は声にならない叫びをあげた。
すっかり太陽の恩恵を受けなくなってしまった山道は薄暗く、俯いたままの瑞煕の顔に更に深い影を落としていた。心配そうに時折瑞煕の方を見ながら、閨登がその隣をゆっくりと、歩幅を合わせて歩く。
瑞煕の背中には、ためらいがちな閨登の掌がそっと添えられていた。ほんの少しの力でも、背中を押すのを止めてしまえば瑞煕の足はそこから前に進まなくなってしまうのを、閨登はこの道中で学んでいた。
交差点に差し掛かるたびに、その先の道を尋ねれば瑞煕はわずかな反応を示す。しかし、それ以外はずっと下を向き、閨登に促されるまま歩く人形のようになっていた。
無理もない、と閨登は思う。先ほどのひどく怯え、取り乱していた瑞煕の様子を見ている限り、大分精神を消耗しているようだ。あのカヤトという男が言っていたこと、瑞煕の過去が気にならないと言ったら嘘になる。しかし、今の彼女からそれを聞き出すのはあまりにも酷だ。
とりあえず今は身体を休ませ、落ち着かせるのが先だと、閨登は坂の上を見やった。
銀色のプレートを掲げた門が見える。その後ろに、白い大きな建物が緑の蔦に守られるようにして鎮座している。話には聞いていたが、実際目の当たりにするとかなりの迫力だ。
門の前に差し掛かるところで、閨登は瑞煕に、出来るだけ優しくそっと声をかけた。
「ほら、もう着いたよ。」
その言葉に、瑞煕はゆっくりと顔を上げた。見慣れた研究所と、優しく微笑む閨登の顔が視界にうつる。胸の中から、抑えきれない何かがこみあげてくるのを感じた。
ぽろ、と瑞煕の瞳から透明な雫がひとつ零れた。それを皮切りに、次々と両の目から大粒の涙があふれ出す。ぎょっとした顔で、閨登は慌てて口を開いた。
「ど、どうしたの?大丈夫?」
おろおろと言葉を探す閨登を横目に、瑞煕は携帯電話を取り出した。溢れだす涙もそのままに、両手で携帯に文字を打ち込む。その様子をじっと見ていた閨登を眼前に、やがてひとつの文章が差し出された。震える手に合わせて小刻みに揺れるその一文を読み取り、閨登の顔色がみるみるうちに変わる。
『わたしのこと、気味悪いとか、おもわないの?』
その一文は、泣いている瑞煕の顔とも相まって酷く自虐的なものに感じ取れた。
瑞煕が今一番知りたくて、一番知るのが怖いその答えを閨登の口から語られるのをじっと待つ。
携帯電話を下げる腕と共に、瑞煕の顔も下を向いた。閨登の顔を見るのが怖い。
むっとした表情で眉をひそめ、閨登は口を開いた。
「・・・そんなこと、思うわけない。」
声が震えている。恐る恐る顔を上げると、少し怒っているような閨登と目が合った。声を荒げて閨登が続ける。
「好きな子のこと、気味悪いとか思うわけないだろ!」
その言葉に、瑞煕はビクッと身体を震わせた。今まで聞いたことのないような声量と口調で、怒りを露にしている閨登を見て胸が押し潰されそうになる。怯えている表情の瑞煕を見ると、閨登は悲しげに目を伏せる。さっきとはうってかわり、その顔は今にも泣きだしそうだった。
「・・・僕は、河拿さんのことが好きだ。好きだから、そばにいたいしたくさん話がしたい。・・・嫌われたって思った時はすごく辛くて、いてもたってもいられなくて・・・。」
それで今日、昼休みに声をかけたのだろうと瑞煕は言葉の続きを読み取った。冷たくなった身体に熱が戻る。しかし、頭は時が止まったかのように凍りついたままだ。もどかしいほどゆっくりと、焦らすようにゆっくりと、閨登の言葉を飲み込んでゆく。
固まったまま動けないでいる瑞煕を見て、閨登が溜息混じりに言葉を続ける。
「・・・ごめん、いきなりこんな事言われてびっくりしたよね。ただでさえ、色んなことがあって疲れてるし、頭も混乱してるでしょ?はぁ・・・ごめん、ほんと・・・。」
自分自身を責めるような深い息を吐いて、閨登は頭をくしゃくしゃにかきあげた。眉をひそめて目を伏せ、もう一度小さく息を吐く。
「・・・ほんと、河拿さんのこととなると、冷静じゃいられなくなる・・・。」
そう呟き、閨登は瑞煕から顔を逸らす。まるでさっきの瑞煕のように、反応を見るのを恐れているようだった。
鈍っていた頭がようやく回りだし、閨登の言葉を理解し始める。しかし気持ちと反応が追い付かず、言葉は瑞煕の中でぐるぐると彷徨ったままだ。出口であるはずの口はぴったりと閉ざされ、瑞煕は未だ棒のように立ち尽くしていた。顔を逸らしたまま、閨登が絞り出すような声をあげる。
「・・・河拿さん。・・・もし、僕のこと、嫌いじゃなかったら・・・。」
言葉の続きを紡ごうとして、閨登は口を閉ざす。そして力なく首を横に振り、瑞煕に向き直った閨登は泣き笑いのような表情を浮かべていた。
「ごめん、何でもない。・・・今の話は、忘れてくれて構わないから・・・。・・・ごめん、おやすみ。」
声が震えていた。しかし、先ほどのような怒りのこもった震え方ではなかった。逃げるようにその場を走り去る閨登の背中を、瑞煕もまた泣き出しそうな顔で見つめていた。
頭を思い切り殴られたような衝撃だった。胸がぐちゃぐちゃになるような罪悪感だった。
心も頭も真っ白で、今まで気付こうともしなかった。どんな時でも一番に自分を気にかけ、心配して家まで送ってくれた閨登の気持ちに。その優しさに。
感謝の言葉も、謝罪の言葉も何ひとつ出せない自分の歯がゆさに苛立ちを覚えた。走り去る閨登を呼びとめる術が無いのが悔しかった。動かない身体が憎かった。
唇を噛みしめ、ふらふらと玄関へ向かう。流れる涙を袖で拭うたび、頬がヒリヒリと痛んだ。
2.
大声をあげて泣いてしまいたい。しかし、胸を押さえても口から漏れるのは苦しげな呼吸だけだ。
力なくガラス扉を押しあける。目に差し込む電球の光は眩しいほどだが、涙で滲む視界には丁度良かった。パタパタと、スリッパが廊下を叩く音。ひどくゆっくりな足音に合わせて瑞煕の体が揺れるたび、両目から新たな雫が溢れてはこぼれ落ちる。そして、スリッパの音は光が漏れる一室の前で止まった。どうやら皆ここに集まっているらしい。ぼつ、ぼつと話し声が聞こえる。
部屋の扉に手をかけて、一瞬瑞煕はためらった。そして、瞳を覆っている涙の粒を拭い去るとその扉を一気にひいた。話し声がぴたりとやみ、視線がいっせいに瑞煕に集まる。
「瑞煕!おかえりー!」
「おかえり、瑞煕。」
「おかえり瑞煕ちゃん。」
次々に投げかけられる言葉に、瑞煕は顔を上げた。遷己と祷葵が笑顔で視線を向けている。そして、祷葵の隣に見慣れない女性の姿をみつけ、瑞煕は首を傾げた。
紅色の髪をもつその女性は、瑞煕のきょとんとした視線に気付くと、頬笑みながら腰をあげた。
「はじめまして、瑞煕ちゃん。舞田朝奈です。祷葵の昔馴染みなんだ。よろしく。」
柔和な笑みを浮かべながら、入り口で立ちつくしている瑞煕のもとへと歩を進める。すらりと伸びた脚に豊満な胸。全身から滲み出る大人の色香に瑞煕も一瞬圧倒され、慌てて顔を逸らした。今近付かれたら、泣いていたことに気付かれてしまう。しかし、そんな瑞煕の抵抗も虚しく、朝奈は訝しげに眉をひそめて息をのんだ。
「・・・瑞煕ちゃん、泣いてるの?」
その言葉に、部屋の中はどっと騒がしくなった。椅子を蹴飛ばして遷己が瑞煕の前まで飛んでくる。
「み、瑞煕!どうしたんだ?大丈夫か?どこか痛いのか?だ、誰かにいじめられたとか・・・!」
おろおろとしながら矢継ぎ早に言葉を重ねる遷己の後ろで、祷葵も心配そうに椅子から腰を浮かせて瑞煕を見やっていた。こらこら、と溜息混じりに遷己をなだめ、朝奈が瑞煕を背中の後ろに隠す。
「そんないっぺんに言われたら答えられるわけないでしょ。泣いてる女の子にはもっと優しくしなきゃ。」
「で、でも・・・。」
釈然としない様子の遷己を抑制して、祷葵も言葉を続けた。
「遷己、ここは朝奈に任せよう。瑞煕も、女同士の方が何かと話しやすいだろう。」
「そういうこと。」
満足そうに頷き、朝奈は瑞煕の頭を優しく撫でる。そっと見上げると、太陽のような笑みを浮かべた朝奈と目が合った。今まで感じたことのない、いわば包容力のようなものを感じて瑞煕は小さくはにかんだような頬笑みを浮かべた。決まりだね、と笑い朝奈が瑞煕の髪を撫でていた手を肩に下してそのまま彼女の体を抱き寄せる。冷えた体に朝奈の体温が心地よく広がり、瑞煕は思わずその白衣に頬を寄せた。その様子を見ていた祷葵が安心したように笑う。
「・・・やはり、朝奈には敵わないな。」
「でしょー?」
朝奈も自慢気に胸を張る。そして瑞煕の肩を抱いたまま踵を返し、部屋を出ようとした所で朝奈は思い出したように脚を止めた。
「・・・ねぇ祷葵。場合によってはあの事話しても良い?」
「あぁ、是非お願いしたい。遷己には私の方から話す。瑞煕のほうは任せよう。」
「オッケー。ありがと。」
右手の親指と人差し指で丸を作り、朝奈が微笑む。「あの事」と言われてもピンと来ない瑞煕と遷己は、それぞれの担当研究者の顔を見上げた。
「じゃ、行こっか。」
きょとんとしたままの瑞煕を促し、朝奈は部屋を後にする。後ろ手で閉められた扉を見つめたまま、遷己がぽつりと言葉を漏らした。
「行っちゃった・・・。なぁ、祷葵。あの事ってなに?」
「あぁ、話そう。・・・その前に遷己、コーヒーを淹れてくれないか。」
「お前、いつかコーヒーの飲み過ぎで真っ黒になるぞ。」
憎まれ口を叩きながらも、遷己は部屋の隅に設置されたコーヒーメーカーへと向かった。
やがて良い香りが部屋に充満する。椅子に腰を落ち着け、祷葵は小さく息を吐いた。
朝奈に連れられてやってきたのは研究所の給湯室だった。六畳ほどのスペースに冷蔵庫、コンロ、食器棚にポットなど一通りのものが揃っている。壁に沿って机と椅子が置かれ、従業員がここで簡単な休憩をとれるようになっているようだ。椅子を引き、瑞煕を座らせると朝奈は棚からマグカップを二つ取り出し、ポットの横に置かれていたスーパー袋の中を漁る。やがてマグカップから湯気が立ち込めると同時にほんのりと甘い香りがした。瑞煕の横に腰をおろし、マグカップをその前に置く。優しい色合いの飲み物がカップの中で小さく渦まいていた。
「今日ここに来る時買ってきたんだ。どうせコーヒーしか置いてないだろうと思って。ココアだけど飲める?」
ココア、という聞きなれない三文字に瑞煕は首を傾げる。恐る恐るマグカップに口をつけ、一口啜ると目を見開いた。チョコレートのような甘さが口いっぱいに広がり、冷めた体に浸透する。瑞煕は少し興奮した様子で朝奈を見やり、満面の笑みで「おいしい」と口を動かした。良かった、と朝奈も笑いココアを啜る。しばらくの無言ののち、朝奈がゆっくりと口を開く。
「・・・どう、少しは落ち着いたかな?」
躊躇いなく瑞煕が首を縦に振る。涙もすっかり乾いた様子で、冷えた頬にも赤みがさしていた。
「ねぇ、聞かせてもらってもいい?どうして泣いてたの?」
優しい口調で静かに朝奈が尋ねる。どうして泣いていたか。原因は多すぎて絞れない。しばし首を傾げたあと、瑞煕はゆっくりと「しゃべりたい」と口を動かす。その動きを見逃すまいとする朝奈の顔は真剣だった。
「しゃべりたい・・・。そっか、そうだよねぇ。今日は、泣くほどの理由があったんだね。」
こく、と瑞煕が頷く。そして、もう一度口を開き「つたえたい」と動かした。
喋りたい。伝えたい。それが出来ないことが泣くほど悔しかった。研究所の門での光景が頭に浮かぶ。
自分がちゃんと伝えていたら、閨登にあんな顔をさせずに済んだのだ。自分が閨登を嫌っているという誤解も、まだ解けてはいない。ちゃんと誤解を解いて、自分の気持ちをはっきりと伝えたい。胸を押さえて瑞煕は目を伏せる。その様子を見て朝奈が察したように頷く。
「なるほどね・・・。好きな子にちゃんと自分の気持ちを伝えたいと、そういうことね。・・・じゃあ、瑞煕ちゃんは知る必要がある。どうして瑞煕ちゃんが言葉を持たずに目覚めたのか。・・・今から話すことは、瑞煕ちゃんにとって辛いことかもしれないけど、ちゃんと受け入れて欲しい。」
心配そうに朝奈が瑞煕の顔を覗き込む。願ってもないことだった。決意に満ちた瞳で、瑞煕は朝奈の目を見てしっかりと頷く。ココアを啜って一息吐き、朝奈はぽつりぽつりと話し始めた。
真剣な表情で、瑞煕も耳を傾ける。二つのガラス玉のような瞳は、朝奈を捉えて離さない。
ぎゅっ、とマグカップを握りしめる手に力を込める。両の手のひらからじんわりと熱が伝わる。そして朝奈の話は、今から四年前に遡った。