1.
淡い光を放つパソコンのモニターから目を離せないでいる祷葵の意識を戻したのは、けたたましく鳴り響く着信音だった。はっとして視線を移すと、机の上で黒い携帯電話が震えている。
慌てて電話を手に取り、通話ボタンを押す。途端に、焦ったような女性の声が耳に飛び込んできた。
『祷葵!無事なの!?』
「朝奈か。どうしたんだ、そんなに慌てて。」
何事もない祷葵の声を聞いて、朝奈は安心したように息を吐いた。続いて聞こえてきた声は幾分か落ち着きを取り戻していた。
『さっき、あたしのケータイにメールが届いたんだ。差出人はわからないんだけど、メールには四年前のおさらいをしよう、って書いてあった。何か嫌な予感して・・・。』
朝奈の話を聞き、祷葵は再びパソコンのモニターに目をやった。電話口から聞こえた文面と同じものがそこにある。
「朝奈、私のところにもさっき同じ文面のメールが届いている。差出人は古斑だ。どうやって朝奈のアドレスを入手したのかは不明だが、おそらくそのメールも古斑からのものだろう。」
『・・・古斑・・・。やっぱり・・・。』
電話の向こうで朝奈が低く唸る。勘の良い彼女のことだ、薄々気づいてはいたのだろう。しばしの沈黙の後、朝奈が決心したように口を開く。
『祷葵。あたし今からそっちにいくから待ってて。』
「なっ・・・!駄目だ、危険だ。」
慌て祷葵が制するも、朝奈の意志は固いようだ。電話の向こうで声を荒げた彼女の顔が容易に目に浮かぶ。
『あたしより危険な目に遭わせてる子、いるんでしょ?今まさに危ない目に遭おうとしてるかもしれないんでしょ?・・・それに、古斑はあたしにもメールをよこした。呼ばれてるなら、行くしかないじゃん。』
「朝奈・・・。しかし・・・!」
『ごめん、もう遅いんだ。じゃあまた後でね。』
いたずらっぽく笑う彼女の声の後ろから、車のエンジン音が聞こえた。祷葵が何か言う前に電話はそのまま一方的に沈黙する。小さく溜息をつき、祷葵は携帯電話を閉じた。
窓の外から、冬の日射しが差し込む。白い雲の隙間から、青い空が顔を覗かせていた。
朝奈が河拿研究所に到着したのは、それからおよそ二時間後のことだった。勢いよく山を走り抜ける車のエンジン音を聞きつけ、祷葵が玄関口に向かうと、真っ赤な乗用車が研究所内に豪快に滑り込んでくるのが見えた。紅色の髪を揺らし、両手にいっぱいの鞄を持った朝奈がヒールを鳴らしながら玄関に駆けこんでくる。四年前と幾分も変わらないその姿に、祷葵は苦笑を隠しきれなかった。
「久しぶり、朝奈。随分と早い到着じゃないか?」
「まあね。ちょっと飛ばし過ぎたかも。早速だけど祷葵、研究室貸して!」
笑顔で朝奈が掲げたのは、両手に抱えたいくつもの鞄だった。中からガラスの擦れる音が聞こえ、祷葵は顔をしかめる。
「構わないが・・・。何を始める気なんだ?」
「四年前のこと、繰り返させるわけにはいかないでしょ。あたしも独自に進めてた研究がようやく完成してね、今から古斑をぎゃふんと言わせる武器を作るのよ。もちろん、祷葵にも手伝ってもらうからね。」
それなりの重量があるであろう鞄を担ぎなおし、朝奈は不敵な笑みを浮かべている。一抹の不安を感じながら、祷葵は朝奈に続いて研究室へと向かった。
広い部屋に、大小様々な機械とベッドが並んでいる。濁った液体が入った円柱形のガラスは、大人の人間が一人すっぽりと入りそうだ。その中に収められているのは小型の黒い物体。四肢には鋭い爪があり、飛躍するための翼は力なく下へ垂れ下がっている。瞳に光を灯していないその生物は、円柱の中で漂うように浮かんでいた。朝奈はその黒い生物を見るなりふふん、と満足そうに笑う。
「さすが祷葵。やっぱり保管しててくれたんだ。これなら作業もはかどるってもんよ。」
「・・・朝奈、そろそろ教えてくれないか。古斑の異形が何か役に立つのか?」
「役に立つと思ったから、あんたも取っといたんじゃないの?」
いたずらっぽく笑い、朝奈が鞄の中からいくつもの書類を取り出し机に並べる。それに目を通し、祷葵は目を見開いて息を呑んだ。
「・・・これは・・・!」
「祷葵の研究を、ちょこっと借りて応用したんだ。これなら古斑にも十分対抗できるでしょ。」
得意げに朝奈が胸を張る。あぁ、とうなずいた祷葵の顔にも笑顔が浮かんでいた。期待と興奮で胸が高鳴る。その横で朝奈は持っていた鞄を全て床におろし、羽織っていたダッフルコートのボタンを外し始めた。コートを脱いだ朝奈の胸に光るものを見つけ、祷葵は小さく笑みを浮かべる。白衣の左胸に光る銀のネームプレートには「河拿研究所副所長 舞田朝奈」としっかり刻まれていた。満面の笑みで朝奈が祷葵に向き直る。
「じゃ、始めますか。所長!」
時刻は午後四時をまわろうとしている。傾き始めた太陽が、十二月の町を淡く照らしている。
白志木大学の大きなガラス扉から、遷己と暁良が姿を現した。水色の空を見上げて、気持ち良さそうに目を細めている。ぐぐっと背中を伸ばし、暁良が大きく息を吐いた。
「ふわぁ~・・・終わった・・・。なぁ遷己、お前も今日バイト休みだろ。どっか行かね?」
「お、良いな!行こうぜ!」
決まりだな、と暁良が笑う。その笑顔が、昨晩見た写真の女性を思い出させる。赤い髪も、太陽のような明るい笑顔も良く似ていて、あの女性が「舞田朝奈」という人物なのだと、暁良の姉なのだと改めて実感する。
自分の知らない祷葵の過去を、河拿研究所の過去を知っている姉弟。昨日写真立てを見たときの、胸がざわつく感じが再び遷己を襲った。
「・・・なぁ、暁良。」
足を止め、少し前を歩く暁良を呼びとめる。「ん?」と声を上げ、暁良がゆっくり振り返った、その瞬間だった。
――ザザザザザッ・・・
大きな音を立て、周囲の木々が一斉に騒ぎだす。叩きつけるような突風は、巨大な影を落として二人の上を通り過ぎた。周りから次々と悲鳴が上がる。
「あれは・・・!」
影が過ぎ去った方へと視線を向け、遷己は思わず声を上げた。
冬の雲に溶けるような白い巨体が翼をはためかせ、猛スピードで飛び去ってゆく。その風貌は、古斑の異形と酷似していた。
しかし、古斑の異形ならば遷己に何らかの反応を示すはずである。白い影は遷己には目もくれず、その行き先は河拿研究所とは反対方向だ。訝しげに顔をしかめ、遷己は首をひねった。
「な、何だ?今の・・・。」
影が消えた方向を見つめて呆然としていた暁良が口を開く。遷己よりもずっと前から古斑の異形を見続けていた暁良でさえ、あの白い異形を見るのは初めてらしい。立ち尽くしている暁良を横目に、遷己は駆けだしていた。胸にこみあげる衝動は、もはや押さえきれない。
「ごめん、暁良!また今度な!」
「お、おい!遷己!?」
呼びとめる暁良の声も耳に届かず、遷己は駐輪場へと向かった。ひったくるように自転車を取り出し、ペダルに体重を乗せる。遷己を乗せた自転車は、河拿研究所へ向けて一目散に風を切った。
2.
息を切らせて木々に囲まれた山道を駆けのぼる。全身に汗が滲み、火照った顔に吹き付ける北風が心地良い。
河拿研究所の門を抜けた所で、遷己は目を丸くして自転車の速度を緩めた。見慣れない真っ赤な車が、玄関の前に無造作に停めてある。タイヤから伸びた黒い後は駐車場に大きな弧を描いていた。
いつもの場所に自転車をつけ、玄関のガラス扉に体当たりして滑り込むように中に入る。膝に手を当てて息を切らせていると、頭上から声がかかった。
「お帰り遷己。どうしたんだ、何かあったのか?」
「祷葵・・・、なんか、白い、でっかいやつが・・・!」
息も絶え絶えにそれだけ伝え、呼吸を整えようと大きく息を吐く。コツ、とヒールの音がしたかと思うと聞きなれない女性の声がした。
「遷己くん、あれを見たんだね。安心しなよ。あれはあたし達の味方だからさ。」
はっとして顔を上げる。祷葵の隣に、紅色の髪を持つ女性が立っていた。二人ともビニールシートや透明なチューブ、大きなタオルを大量に抱えていかにも「片付け中」といった出で立ちだ。両手に荷物を抱えたまま、白衣の女性が遷己に向き直る。
「はじめまして。あたしは舞田朝奈。祷葵とは昔っからの付き合いなんだ。よろしく。」
そう言って浮かべた笑顔に、遷己は確かに見覚えがあった。所長室の写真立ての中で。そしてついさっき、大学で。
「暁良の・・・。」
つい、口に出していた。その言葉を聞いた朝奈が声を弾ませる。
「おっ、暁良の友達?あいついい加減だけど、まぁ悪いヤツじゃないからさ。弟のこと、よろしくね。」
そう言って遷己にウインクして見せる。華やかな顔立ちに丁寧な化粧、ピンヒールから伸びる黒タイツ。今まで感じたことのない大人の色香に、遷己の胸も自然に高鳴った。もちろんです、と胸を張り満面の笑みを返す。その光景を微笑ましく見ていた祷葵が口を開いた。
「じゃあ遷己。早速だが片付けを手伝ってくれないか。」
「いいけど・・・。これ、何なんだ?」
祷葵と朝奈の足元に、まだまだ大量に積み上げられた何かの残骸を怪訝そうに見つめる。ビニールシートを持ち上げると、ぬるっとした液体が滴り独特の臭いを放った。思わず顔をしかめる遷己を見て、朝奈が笑い声をあげる。
「あとでゆっくり教えるよ。ついておいで。」
スリッパに履き替えた朝奈が先を歩く。行くぞ、と祷葵に促され、遷己は滴る液体を両手で押さえつつ大分へっぴり腰になりながらも二人の後に続いた。
朝奈と祷葵に先導され、辿りついたのは広い研究室だった。一歩足を踏み入れ、遷己は息を呑んだ。
「ここは・・・。」
「懐かしいだろう、遷己。」
祷葵の表情は読み取れない。遷己の目は、無機質な白い空間に釘付けになっていた。静かに作動する機械の音、並べられたベッドの硬さも良く知っている。あれから近づくことすらなかったこの部屋は、一度見ただけで忘れられない数々の光景を遷己に刻みつけていた。
そして、あの時は無かった・・・いや、気付かなかったのかもしれない円柱の大きな水槽。その中に漂う黒い物体を見つけ、遷己は思わず左手に力を込めた。
「祷葵、あれは・・・?」
遷己の指す方向を見やり、祷葵は「ああ」と笑みを含んだ声を漏らした。
「古斑の異形だ。もちろん生きてて襲いかかってくるなんてことは無いから安心しろ。」
「なっ・・・誰もそんなこと心配してねぇって!何であんなの保管してんだよ?」
「そんなこと」を心配していたのだろう、遷己の声は恐怖の色を隠し切れていなかった。朝奈が肩を震わせて笑いを押し殺す。くく、と漏れた声の方に遷己がむっとした表情を向けた。
「ごめんごめん。でもこの古斑のペットだって案外役に立つもんさ。さっきあんたが見た白いのも、この異形からあたし達が作ったんだ。」
「えっ?」
自慢げに胸を張る朝奈の言葉に、遷己は思わず声を上げた。言葉を続ける祷葵も、どことなく誇らしげだ。
「朝奈は腕の立つ研究者なんだ。古斑の異形から作ったクローンを、たったの四時間であそこまで大きく成長させた。・・・私なんか、四年もかかったのにな。」
最後は少し自嘲気味に静かな笑みを浮かべた祷葵を、遷己は怪訝そうな顔で見つめた。その視線から逃れるように、祷葵は小さく笑い声を上げた。
「さ、片付けの続きだ。朝奈がやたら大きなものを作るから、片付けの方も骨が折れる。」
「なによー。祷葵だって途中からノリノリだったくせに。それに、古斑をぎゃふんと言わせるならあんくらい迫力のあるやつじゃないとね。」
眩しいくらいの笑顔で朝奈が手に持っていたビニールシートを掲げる。豪快な性格も暁良そっくりだ、と遷己もつられて笑い声をあげた。
しかし、自嘲気味に笑った祷葵の顔が、放たれた言葉が、脳裏に焼き付いて離れないでいた。