1.

クラス全体がそわそわと浮かれた雰囲気になっているのに、瑞煕は教室に入るなり感づいていた。しかし、感づいたところで一体クラスを騒がせている原因は何なのか理解できずに困惑する。
今日から十二月に入る。十二月になったら何かあるのだろうか?頭をひねりながら席についた。
「おはよう、河拿さん。」
隣の席の閨登が声をかける。おはよう、と口を動かし笑顔を返したはいいものの、そこから二人の間には沈黙が流れ始めた。
一か月前、体育倉庫に閉じ込められてしまってから、何だか閨登の態度が今までと違ってしまったような居心地の悪さを瑞煕は感じていた。あの事件の翌日、大丈夫だったか尋ねてみると、「みっともないところ、見せちゃったね。」と頬を赤らめて笑っていたのを覚えている。しかし、閨登の一番見られたくなかったであろうものを見てしまった罪悪感と後ろめたさから、瑞煕自身も彼に対する態度を変えてしまった。しかし、それよりも大きな原因は他にある。
閨登の顔を見るたび、瑞煕は息が詰まるような感覚に襲われ、全身がのぼせたように熱くなり、何も言葉が出てこなくなりつい顔をそむけてしまうのだ。以前のような他愛もない会話はめっきり減ってしまい、やがて閨登の方から話しかけてくることも少なくなっていた。
気まずい雰囲気のままホームルームが始まり、午前の授業が過ぎてゆく。黒板を写すペンの音が、ノートや教科書をめくる音が、閨登が隣にいるということを伝えてきて瑞煕の鼓動は鳴りやまないままだ。
意識すればするほど心臓は激しく脈打ち、息もできないほどだった。胸をぎゅっと押さえ、浅く吐いた瑞煕の息は震えていた。耳の中でガンガンと鳴り続ける音は、いつしか隣から聞こえてくるペンの音をもかき消していた。

あっという間に四時間が流れ、午前の授業が終わる。浅い呼吸を繰り返していた瑞煕はすっかり疲れ果てていた。酸素不足でかすむ脳は午前の授業の半分も入ってきていない。冷たい空気で頭を冷やそうと、瑞煕は力ない足取りで教室を後にした。
廊下のひんやりとした冷気にあてられ、頭の中にかかっていた霧が晴れ渡るような感覚に瑞煕は安堵の息を吐いた。他クラスの生徒たちが一同に集い混じり合い、廊下は昼休み特有の喧騒に満ち溢れている。そんな中、瑞煕の背後でガラリと教室の扉が開く音がした。
「・・・河拿さん?」
聞こえてきた声に、瑞煕の心拍数が一気に跳ね上がる。慌てて振り返ると、心配そうに眉をひそめた閨登の姿があった。
「河拿さん、大丈夫?授業中ずっと辛そうだったし・・・。具合、悪い?」
いつもとは違う声色で、閨登が心の底から心配してくれているのを感じ取り、瑞煕の心は申し訳ないような、くすぐったいような不思議な感覚で満たされた。笑顔で首を横に振り、大丈夫と伝えると閨登は良かった、といつもの笑顔を浮かべる。久しぶりに見たその笑顔に、瑞煕は一カ月で出来た溝が一気に埋まるような、高揚した気持ちを感じていた。
口をつぐみ、言葉を探すように閨登は目を伏せる。瑞煕も閨登の顔を見上げながら、じっと次の言葉を待つ。騒がしい廊下の中で、二人の間だけしばしの沈黙が流れた。しかしその沈黙を破り、瑞煕に声をかけたのは閨登ではなく廊下の向こうから現れた見知らぬ他クラスの男子生徒だった。
「あっ、いたいた河拿さーん!ちょっといい?」
瑞煕と閨登が同時に声をした方を見やる。制服を着崩し、髪をワックスで立たせた男子生徒は、ハイテンション気味に手を振りながら瑞煕へと歩み寄る。いきなりの見知らぬ生徒の乱入に瑞煕はすっかり怯え、男子生徒と距離をとるように後ずさった。
「ちょっとちょっと!そんなに怯えなくてもいいじゃん!ねぇねぇ、河拿さん今日の放課後ヒマ?」
瑞煕の肩に手を置き、男子生徒はニコニコと笑っている。しかし、その笑顔も瑞煕にとっては不快でしかなかった。ぶんぶんと首を横に振ると、男子生徒は瑞煕の肩に腕をまわして駄々をこねる子供のような、甘えた声を出す。
「え~いいじゃんつれないなぁ。俺とデートしよ?もうすぐクリスマスだしさぁ、お互い寂しい思いはしたくないじゃん?ねっ?」
嫌悪と恐怖で瑞煕が顔をしかめる。肩にまわされた腕を振りほどこうとした瞬間、密着していた男子生徒の身体が一気に引き剥がされた。泣きそうな顔で瑞煕が見上げると、今まで見たことのないような鋭い眼差しで、閨登が男子生徒を睨みつけている。動けないでいる瑞煕の手首を閨登が掴み、ぐいと背中の後ろに引き寄せる。
「ごめん、河拿さんは僕と先約があるんだ。あきらめて。」
背後からでは閨登の表情は読み取れない。しかし、背中ごしに聞こえる怒りを押し殺したような冷たい声に瑞煕は動揺を隠せないでいた。男子生徒が顔をしかめて声を荒げる。
「は?何だよ鴕久地。お前らデキてんの?マジで?」
「マジで。行こう、河拿さん。」
閨登に手を引っ張られ、瑞煕も後に続く。すれ違い様に見た男子生徒は呆然とした表情を浮かべていた。人混みをかきわけ、無言で閨登は歩を進める。すれ違う生徒から注目を浴びて瑞煕は顔を伏せる。しかし、その手を振り払うことも、立ち止まることも躊躇われた。

人通りのない階段の踊り場まで出ると、そこでようやく閨登は足を止めた。その隣まで歩を進め、瑞煕は閨登の顔を覗き込む。小さく安堵の息を吐いた閨登は、いつもの温厚な表情を浮かべていた。
「大丈夫だった?河拿さん。」
その言葉に瑞煕は大きくうなずき、ありがとう、と口を動かした。手首を掴んでいた閨登の手が離れ、ひやりとした空気が残った熱さえも冷ましていく。名残惜しそうに瑞煕が手首を触ると、閨登が慌てたように口を開いた。
「ご、ごめん!手、痛かった?」
その言葉に瑞煕も慌てて首を横に振る。ちがう、だいじょうぶ、ごめん等矢継ぎ早に口を動かそうとするも、うまく行かずに俯いてうやむやに濁した。そっか、と呟いて閨登も俯く。
「あ、あの・・・さ。」
ためらいがちにかけられた声に、瑞煕は顔を上げた。視線を泳がせ、言葉を探しているであろう閨登の緊張感が伝わり、瑞煕も身体を強張らせる。
「さっき、つい先約があるなんて言っちゃったけど・・・。実は、そのことで河拿さんに声をかけたんだ。・・・その・・・。」
閨登の顔がみるみる赤くなっていくのがわかる。瑞煕も、火がつきそうなほどの顔の熱を感じていた。全身が心臓になったみたいに激しく脈打っている。
「きょ、今日の放課後!」
絞り出すような声で、閨登が口を開く。瑞煕も、そんな閨登から目が離せずにただ次の言葉を待った。二人の顔が耳まで赤く染まる。探るような声で、恐る恐る、閨登が続ける。
「・・・一緒に、帰りま・・・せんか?」
今日は初めてのことばかりだ、と瑞煕は思う。あんな鋭い眼差しで、瑞煕でさえ恐怖を感じるほどの怒りを露わにしていた閨登も、こんな風に顔を真っ赤にしてしどろもどろになっている閨登も、今まで見たことがなかった。そして、痛いくらい打ち付ける胸の鼓動と、冬だということを忘れるくらいの熱も、教室で感じていたものとは比べ物にならない、これまで感じたことのない初めての感覚だった。
そして、今まさに閨登と二人で帰るという、初めての約束をしようとしている。はにかみながらも精一杯の笑顔を浮かべ、瑞煕は小さくうなずいた。閨登の顔がぱっと明るくなる。
「っ・・・本当!?」
もう一度、今度は閨登の顔を真正面から見据え、満面の笑みで大きくうなずく。全身の力が抜けたらしく、閨登は大きく息を吐いて階段の手すりに体重を預けた。
「良かった・・・。」
そう溜息混じりに漏らす。同じく、緊張感から解き放たれた瑞煕がくすくす笑うと、閨登も照れたような笑い声をあげた。

2.

それからの午後の授業は、ほとんど身に入らなかった。放課後のことで頭がいっぱいになり、その時間が刻一刻と迫ると同時に瑞煕の心臓は悲鳴をあげた。
授業の全日程が終了し、ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。いつも通り鞄にノートや教科書を仕舞う作業も、今日だけは何故か特別なことのように思えた。
今にも震えだしそうな手を教科書で押さえ、平静を装いながら片づけを終える。鞄の口を閉じて隣を見ると、同じように準備が整ったらしい閨登と目が合った。照れたように笑い、閨登が口を開く。
「・・・行こっか。」
笑顔で頷き、瑞煕はそれに答えた。廊下に出て二人並んで歩きだす。校内は下校する生徒で溢れかえり、閨登とはぐれないようにするだけで精一杯だった。流されるように昇降口まで辿りつき、外に出ると冷たい北風が瑞煕の髪を揺らした。校内では無言だった閨登も、風に吹かれて身を震わせた。
「寒いね。大丈夫?」
むしろ暑いくらいだ、と瑞煕は頷く。人混みから解放され、ようやく二人は歩幅を合わせながらゆっくりと歩き出した。
「今日はごめんね、付き合わせちゃって。」
申し訳なさそうに眉をひそめる閨登の言葉に、瑞煕は首を横に振った。少し安心したように微笑み、閨登は続ける。
「・・・僕、河拿さんに嫌われたって思ってた。あんなとこ見られちゃったし、幻滅されても仕方ないって。
でも、そうやって理由つけて、河拿さんを避けてたのは僕の方だった。自分で自分のこと嫌いになって、こんな情けない顔河拿さんに見られたくなくて・・・。ごめん。」
力なく謝る閨登の声に、瑞煕は驚いて顔を上げた。瑞煕の方こそ、閨登に嫌われたと思い込んで、ここ最近落ち込んでいたのだ。言葉が出て来なくなるとすぐに俯いてしまうこの癖に嫌気がさして、愛想を尽かせていたのは紛れもなく自分自身だったというのに。
もう一度、ごめんと謝る閨登の言葉に瑞煕は頭が痛くなるくらい激しく首を横に振った。
謝るのは自分の方だ。誤解を解くには今しかない。瑞煕は閨登の前に回り込み、俯いているその顔を真正面から見上げた。戸惑ったような表情の閨登と目が合う。本当のことを、一言一句間違わないように伝えたくて、瑞煕の唇が緊張で震える。一呼吸おいて口を開こうとした、その瞬間だった。
「理子!」
大きな声が聞こえ、瑞煕と閨登は顔を見合せたまましばし硬直した。理子という聞いたことのない名前なのに、瑞煕の記憶の奥底が揺さぶられる。ゆっくりと後ろを振り返り、声のした方を見やって瑞煕は息を呑んだ。
黒い髪に端正な顔立ち。年齢は祷葵より少し下くらいだろう、長身の男が人の良さそうな笑みを浮かべている。その男に、瑞煕は確かに見覚えがあった。夢から覚めたあとの、切り刻まれるような胸の痛みを感じて瑞煕は身体を震わせる。
その男は、瑞煕の顔を見るなり満面の笑みで二人に駆け寄った。

「やっぱり理子だ。四年ぶりだね。」
ぞく、と瑞煕の背中を悪寒が駆け抜ける。四年前といったら、瑞煕はまだこの世に存在してすらいないのだ。じりじりと後ずさる瑞煕を、閨登が怪訝そうな顔で見やった。
「河拿さん、知り合い?」
怯えたような瞳で男性を見つめたまま、瑞煕が首を横に振る。肩をすくめて、男性が笑った。
「酷いなぁ理子。いくら元とは言え彼氏の顔を忘れるなんて。」
「っ!?」
初耳だ。身に覚えがない。閨登のコートの袖をぎゅっと掴み、瑞煕は小さく首を振る。きっとこの男性は人違いをしているのだ。閨登を見上げ、泣きだしそうな顔で「ちがう」と口を動かす。小さく頷き、閨登が口を開いた。
「すみませんが、人違いじゃ・・・」
「いや、違わない。確かに梶浦理子だ。・・・いや、」
閨登の言葉を遮って、男性が冷たい笑顔を作る。先ほどまでの人の良さそうな表情とはうってかわった雰囲気に、瑞煕は身体を強張らせた。
「『元』梶浦理子、が正しいかな。河拿瑞煕ちゃん?」
全身から血の気が引いて行く。足が震え、頭がガンガンと痛んだ。「え?」と声を漏らし、瑞煕を見やる閨登の声も視線も、どこが現実味を帯びずに霞がかった。ガラス玉のような瞳はいっぱいに見開かれ、男性を見据えたまま動かない。
『元』梶浦理子。男性の言葉が真っ白な頭の中を駆け巡る。固まったままピクリとも動かなくなった瑞煕を見て、男性が笑い声を上げた。
「その様子だと、所長さんからなーんにも聞いてないんだね?俺が替わりに教えてあげようか?知りたいでしょ、自分の正体が誰なのか。自分が何者なのか知りたいでしょ?」
畳みかけるように男性が言葉をぶつけてくる。
所長室で見つけた、一枚の写真が頭の中によみがえる。自分によく似た人物。それがこの男性の言う自分の正体とやらに関係があるのだろうか。
本当のことを知りたい気持ちと、男性に対する恐怖心が瑞煕の中でぶつかる。何より、この男性の口から語られることを、閨登に何一つ知られたくはなかった。
ゆっくりと肩に伸びてきた男性の手を、瑞煕は思い切り振り払う。呆気にとられている男性を睨みつける瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。きょとんとして男性が首をひねる。
「あれー?振られちゃった。やっぱ新しいカレシ出来たら俺なんか用無しって感じ?残念だなぁ昔はあんなに愛し合った仲なのに。」
閨登が顔をしかめる。瑞煕を庇うように一歩前へ出て男性を睨みつけるその眼光は、静かな怒りを秘めていた。
「・・・あなたは一体何者なんですか?」
静かにそう問いかけると、男性はぽん、と両手を合わせた。そして張り付けたような笑顔を浮かべてわざとらしく明るく声を上げる。
「ごっめん!自己紹介がまだだったね。俺の名前は月島カヤト。・・・いや、古斑カヤトって言ったほうが、今の理子にはわかりやすいかな?」
「こむら」その三文字を聞いた瞬間、瑞煕の身体は凍りついた。
古斑カヤトと名乗った男性は満面の笑みで、瑞煕に手を伸ばす。
そして、諭すような優しい口調で、ゆっくりと瑞煕に語りかけた。

「四年前のおさらいをしよう、理子。」

第8話 ゆめこいびと

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