1.
漆黒の闇夜を、巨大な風が吹き抜ける。赤い二つの光が町を横切る。
それを追いかける二つの白い影。膝下まである長い白衣をはためかせ、それぞれの片腕は本来の形を失っていた。
月の光もない冬の夜空に溶け込み、黒き異形はそのスピードを緩めることなく真っ直ぐ山に向かって風を切っている。携帯電話を耳に当て、片腕を黒光りする銃に変形させた遷己が口を開いた。
「祷葵、やっぱりこいつ研究所に向かってるぞ!」
『あぁ、町で暴れられるよりよっぽど良い。そのまま山の中まで追いこんでくれ。』
「了解!瑞煕、このままやつを追い詰めるぞ!」
隣を走っている瑞煕に声をかける。右手を鋭利な刃に変形させた瑞煕は、鋭い眼差しで異形を捉えたまま頷いた。
ここ最近古斑の攻撃の手は勢いを増し、異形が町に姿を現す頻度も高くなっていた。そのため昼夜問わず、瑞煕と遷己は異形の討伐に追われている。
ラストスパートをかけにきている、と祷葵は言う。瑞煕と遷己の存在に気付いた古斑側が焦りを見せているとのことである。祷葵の強力な武器であり盾である二人は、古斑にとって最も邪魔な存在だと言えるだろう。
強硬手段に出た古斑の異形を、遷己の弾丸が捉える。短い叫び声を上げて、異形は周囲の樹木にその身体を叩きつけながら地に伏せた。すかさず、白い刃がその首元に振り下ろされる。断末魔の叫びは途中でぶつりと切れ、異形の頭が身体を離れて宙を舞う。鈍い音を立てて地面に叩きつけられた頭部に、自身の体液が雨のように降り注いだ。
ピクリとも動かなくなった異形を見下ろし、瑞煕が小さく息を吐く。その背後から遷己が溜息まじりに声をかけた。
「はぁ・・・。これで今月入って三体目だぜ。どんだけ多いんだよ。・・・そのかわり、なんだか段々よわっちくなってるけど。」
「それはそうさ。こんなもの、古斑がこねくり上げて作った粘土細工にすぎない。量産すれば、その質が落ちのは当然のことだ。」
松葉杖をつきながら、祷葵が木々の間から姿を現す。地に伏して絶命している黒い塊を見て眼鏡の奥の目を細めた。
光を失った二つの瞳が祷葵を捉えて離さない。苦痛に歪んだ表情のまま凍りついた異形から強い憎悪を感じ、祷葵は頭を押さえ首を振った。
ガンガンと頭が痛む。ぐらりと視界が揺れる。キリキリと痛んだ胸は、まるで誰かにナイフで切りつけられているかのようだ。
「套矢・・・もうやめてくれ。」
「祷葵?」
心配そうな遷己の声が、どこか遠くで聞こえる。草を踏み分けて駆け寄ってくる二つの足音を感じながら、祷葵はゆっくりと目を閉じた。
***
まだ真新しいその建物は、太陽の光を浴びて白い輝きを放っていた。舗装された道路の先には、ピカピカに磨かれた銀のプレートが来るものを歓迎している。
木々に囲まれたその道を、二人の少年が息を切らして駆けあがってゆく。各々の手には白い紙が一枚、大事そうに握りしめられていた。鉄の門を抜け、コンクリートで固められた駐車場の脇を走り抜け、我先にと建物の中に入ってゆく。
大きなガラス戸の先に赤いレンガ調の玄関スペースと下駄箱。どこか学校の昇降口を彷彿とさせるその場所で、二人の少年は足を止めた。肩で息をしながら目の前の人物を見やる。黒髪に眼鏡をかけ、長い白衣をまとっている男性が、目を細めて笑いながら少年たちを出迎えていた。
「お帰り、祷葵。套矢。何かご報告があるのかな?」
そう言いながらしゃがみ、少年たちと目線を合わせる。少し背の高い少年が、元気よく手に持っていた紙を男性に見せた。
「父さんみてみて!こないだのテスト、満点とったんだよ!」
「凄いじゃないか祷葵。さすがはお兄ちゃんだな。」
満面の笑みで、男性が少年の頭をくしゃくしゃと撫でる。祷葵、と呼ばれた少年も満足そうに笑った。その様子を見ていたもう一人の少年が、慌てて手に持っていた紙を男性に見せる。
「父さん俺も!俺もはなまるだったんだよ!」
「おぉ、套矢も満点かぁ。頑張ったな、えらいぞ。」
套矢の頭も同様にくしゃくしゃと撫で、二人いっぺんに抱きしめる。男性が幸福のひとときを堪能していると、廊下の奥から若い男の声が上がった。
「所長!ちょっとこっちにお願いします!」
「あぁ、今行く!それじゃぁ祷葵、套矢。母さんにも見せておいで。」
うん!と元気いっぱいにうなずき、二人の少年はパタパタと廊下を駆けてゆく。その後ろ姿を愛おしそうに見つめていると、再び若い男の声がした。
「所長、本当に息子さんが可愛くて仕方ないんですね。」
「当たり前だ。俺の一番の宝物だからな。お前も結婚して子供を持ったらわかるぞ。」
未だにやつく顔を押さえながら男性が歩を進める。そんなもんですか、と呟き若い男もその後に続く。
騒がしい声も遠くなり、玄関ホールには再び静寂が訪れた。午後の光をめいっぱいに取り込み、穏やかな空気が流れている。
一人の女性研究員が、透明なジョウロを持って玄関ホールに足を踏み入れた。小さく鼻歌を歌いながら、ホールに並べられた観葉植物に水を注いでゆく。ふと女性が玄関の外に目を向けると、一人の少女がこちらに駆けてくるのがわかった。太陽のように真っ赤な髪を揺らし、満面の笑みを浮かべている。やがて元気いっぱいな声が玄関に響き渡った。
「こんにちはー!!」
「こんにちは朝奈ちゃん。今日も元気ねぇ。」
「うん!あのね、テストで頑張ったねって、ママにほめられた!」
すごいね、と女性が笑うと朝奈と呼ばれた紅髪の少女も満足そうな笑い声をあげた。廊下の奥から、元気な子供たちの声と足音が聞こえる。女性と朝奈が廊下の方に目をやると、やがて二人の黒髪の少年が姿を現した。
「あ、朝奈だ!」
「トーキ、トーヤ!あそぼー!」
朝奈が手を振ると、うん!と二人もうなずく。玄関ホールは再びにぎやかな子供の声で満たされる。
その様子を見ていた女性研究員がふふ、と笑い声をあげた。
「ねぇ、朝奈ちゃんは将来どっちのお嫁さんになるのかな?」
「な、ならないもん!」
顔を真っ赤にした朝奈が声を荒げる。きょとん、として祷葵も続けた。
「そうだよ、しないよ!」
「ちょっと!!」
朝奈に力いっぱい背中を叩かれ、祷葵は前のめりに倒れる。耳も手のひらも真っ赤になった朝奈を見て、女性研究員と套矢が同時に笑い声をあげた。
その日、元気溢れる子供たちの笑い声は暗くなるまで絶えることはなかった。
あまりにもおだやかで、あまりにも幸せな、輝きに満ちた時間。
子供たちの声が段々遠くなり、やがて一人の男性の声が遠くの方から聞こえてきた。
***
2.
ゆっくりと目をあける。ぼんやりとした視界は白くにごり、それが電灯の光なのだと理解するのに時間がかかった。かすかに手を動かすと、やわらかい布団の感触がある。
「祷葵!気がついたのか?」
心配そうな声があがり、視界の一角が陰る。輪郭はぼやけ、黒、白などのあいまいな情報だけで構築されたその影がゆっくり動いている。鈍る思考を巡らせ、祷葵は口を開いた。
「・・・遷己か?」
「あぁ。もうホント驚いたぜ。いきなり倒れるんだもん。大丈夫か?」
「大丈夫だ。・・・すまない、世話をかけたな。」
上体を起こし、遷己から手渡された眼鏡をかける。ぼやけた視界がはっきりと澄み渡った。ここはどうやら所長室の奥の寝室らしい。本来の役割は仮眠室なのだが、祷葵が普段からここに寝泊まりしているため瑞煕も遷己もここが祷葵の寝室だと信じて疑っていない様子だ。ぐるりと視界を巡らすと、見慣れた部屋の中に心配そうな顔の遷己と瑞煕がいた。
「最近、根詰めすぎなんじゃねーの?あの黒いヤツもいっぱい来るしさ。良い歳なんだから、あんま無茶すんじゃねーって。」
「良い歳は余計だ。・・・だが、古斑と同じように私も焦っていたのかもしれないな。
ありがとう遷己。気をつけよう。」
素直でよろしい、と遷己が満足そうに笑う。瑞煕も笑顔で頷き、座っていた椅子から腰をあげた。
「じゃ、今日は早く寝ろよ。」
「あぁ、そうするよ。おやすみ、遷己。瑞煕。」
おやすみ、と言葉を返して、二人は所長室を後にする。廊下に出た遷己と瑞煕の表情は一様に沈んでいた。
パタパタと、スリッパが廊下を擦る不揃いな足音が研究所内に響く。主が寝静まった研究所は、耳が痛いほどの静けさだった。
「・・・聞けるわけ、ないよな。」
重たい口を開いて、遷己がぽつりと呟く。瑞煕は俯き、床に視線を落したままだ。
聞けなかった。
眠っている間、祷葵が口にしていた「トウヤ」という名も、うっすら浮かべていた涙の訳も。
所長室に飾ってあった写真の中で笑っていた、自分達によく似た人物のことも。
ふぅ、と遷己が小さく溜息を吐く。
「・・・まぁ、そのうち祷葵の方から話してくれるだろ。それまで、信じて待とうぜ。」
その言葉に、瑞煕もぎこちない笑顔を浮かべて頷いた。
廊下を進む二人の足音は階段を上がり、その先にある研究員宿泊室の前で止まった。白い簡素な扉の上には銀色のプレートで部屋番号がふってあり、より階段に近い一号室が瑞煕の部屋、隣の二号室が遷己の部屋として割り当てられているようだ。ドアノブに手をかけ、瑞煕が「おやすみ」と口を動かすと、遷己もおやすみと返し二つの扉が同時に開かれた。
後ろ手でドアノブを引き、瑞煕は軽く息を吐いた。一号室の中は扉も壁も真っ白なシンプルな作りになっているが、ベッドや机、クローゼットや本棚がなんとか部屋としての雰囲気を醸し出している。
仰向けでベッドに身体を投げ出し、瑞煕は右手を高く掲げた。薄暗い部屋の中で、手首の白いリングだけが鈍く光って見えた。
わからないことだらけだ。祷葵のことも、古斑のことも、自分たちのことも。
そして、たまに夢の中に出てくる見知らぬ男のことも。その夢を見るたび、瑞煕は切り刻まれるような胸の痛みを感じて飛び起きるのだ。
全ての真実が、厚いベールで何重にも覆い隠され、何度思考を巡らせても同じ所で行き場を失い、ぐちゃぐちゃと闇の中に溶けてゆく。
ラストスパート、という祷葵の言葉。信じて待とう、という遷己の言葉。
本当のことを知りたくて焦る心と、それを押さえようとする気持ちで瑞煕の胸はざわついていた。
ぽすん、と音をたてて右腕がベッドの上に落ちる。力の抜けた身体を布団に沈め、瑞煕はゆっくりと目を閉じた。
薄く部屋に差し込む光を感じて、瑞煕はゆっくりと目を開けた。どうやらあのまま眠ってしまっていたようだ。冬の朝の、底冷えする寒さに襲われ身体を震わせながら、瑞煕は壁にかけてあったコートを羽織り、扉を開けた。廊下はしんと静まり返り、雪景色のような白い空間が寒さをより一層際立てているようだ。早く食堂へ行って暖をとろうと、瑞煕は足早に階段を下りた。
一階に足を踏み入れると、コーヒーの良い香りが鼻をくすぐった。その香りに引き寄せられるように廊下を進み、食堂の重い扉を開けると、温かい空気が冷えた瑞煕の身体を心地よく包む。白いシャツに黒い厚手のカーディガンを羽織り、祷葵は柔和な笑みを浮かべている。
「おはよう瑞煕。寒いだろう、早く温まるといい。」
そう言って、赤い火が灯っているストーブを見やる。こくりと頷き、瑞煕が歩を進めた先はストーブの傍ではなく祷葵の隣だった。「大丈夫?」と口を動かすと、祷葵はああ、と頷いて微笑む。
「おかげでよく眠れたよ。昨日は本当に助かった。ありがとう、瑞煕。」
その言葉を聞き、瑞煕も安心したような笑顔を浮かべる。そしていつものように二人並んで朝食の準備を始めた。
やがて、眠たそうな目をこすりながら遷己が食堂に姿を現す。バイトを始めてから遷己の生活習慣に多少の改善はみられるものの、未だ朝には弱いようだ。
普段通り食事を済ませ、瑞煕は高校へ、遷己はバイトへそれぞれ出かけてゆく。二人を見送り、祷葵が研究室にこもり始めるのは大体午前十時をまわる頃だ。
いつものようにパソコンの電源を入れ、机の上の書類を片付ける。松葉杖をつきながら片手で器用に作業を進めて行くと、祷葵の耳に新着メールを知らせる通知音が飛び込んできた。ゆっくりとパソコンに近づき、メールを開いて祷葵は息をのむ。
「これは・・・!」
周囲の書類を巻き込み、松葉杖が派手な音を立てて倒れる。白い紙がひらひらと舞い、床を滑る。
しかし、いずれも祷葵の視界には入らない。眼鏡の奥の瞳は見開かれ、モニターの一点を捉えている。
差出人の名前は、古斑。
そして、その下に続く本文に目を通し、祷葵は机の上についた両手を強く握りしめた。
メールに書かれているのは一文のみ。しかし、それだけで十分だった。
<四年前のおさらいをしよう>