1.

時刻は夜の8時をまわっている。この日はバイトが休みらしい遷己が、河拿研究所の食堂でそわそわと動き回っていた。その近くの机では、祷葵が時計と手元のコーヒーに視線を往復させている。コーヒーはマグカップに並々と注がれているが、とっくに冷めきっているようだ。痺れを切らした遷己がおもむろに口を開いた。
「やっぱりおかしいって!瑞煕が何の連絡もしないでこんなに遅いこと今まで無かったろ。」
「・・・メールも返さないし、電話にも出ないな。今日は古斑からの襲撃もないはずだ。何か別の事件や事故に巻き込まれている可能性もあるな・・・。」
「俺、ちょっと瑞煕の高校に電話かけてみる!」
そう言うやいなや、遷己は携帯電話を取り出してアドレス帳から高校の電話番号を探す。二、三度の呼び出し音の後に中年の男性の声が聞こえてきた。
『お電話ありがとうございます。遠野馬高等学校の若田が承ります。』
定型句の後に、遷己は自分が瑞煕の兄であること、瑞煕の帰りが遅いことを伝える。瑞煕が既に下校しているかどうかだけでも確認して欲しい、と伝えると少々お待ちください、と電話の声。しばらく遷己の耳に軽快な音楽が流れ込んでくる。
数分の沈黙の後、保留音が途切れた。
『大変お待たせいたしました。瑞煕さんのクラスは放課後、球技大会の練習でグラウンドを使用していたのですが、下校の確認は取れておりません。』
「どういうことですか?」
『昇降口の下駄箱に靴はないのですが、更衣室側の下駄箱に女子生徒の靴が残っています。これが瑞煕さんのものかどうかはわからないのですが・・・』
「待っててください今行きます!」
教師の話を遮り、遷己は電話を切る。その顔には焦りが見えた。
「俺、ちょっと高校行ってくる!」
「あっ、おい!遷己!?」
祷葵の言葉も聞かず、遷己は食堂を飛び出した。足音が段々と遠ざかる。
溜息をひとつ吐いて、祷葵はすっかりまずくなったコーヒーを啜った。

自転車で山を飛ぶようにして下り、風のように町を走り抜ける。人通りの少なくなった道を、車道も歩道もお構いなしに突き進んでゆく。
やがて、暗闇に溶け込むような赤レンガの建物が見えてきた。遷己は迷わずその門をくぐり、灯りのついている窓の前に自転車を止めた。
その部屋は職員室らしい。広い室内にたくさんの机とパソコンが並べられている。その中におそらく電話の相手だろう、中年の男性の姿があった。窓をこんこんと叩くと、男性教師は遷己に気付いたらしく窓の横にある勝手口を開けた。
「すみません、先ほど電話した瑞煕の兄です。」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ。」
小走りで遷己を誘導する教師の後へ続く。暗い廊下内を、懐中電灯の明かりだけを頼りに走り抜ける。渡り廊下を抜け、体育館の横にそびえ立っている大きな建物の前で教師は足を止めた。ここが更衣室なのだろう、入り口付近に大容量の下駄箱がある。奥は扉とカーテンで遮られているが、わずかに空いた天井付近のスペースから中の広さは容易に想像できた。

教師が懐中電灯で下駄箱を照らす。遷己もその光の先に視線を向けた。そこには一足の靴が仕舞われている。小ぶりな何の変哲もない黒いローファーだが、瑞煕が毎日それを履いて登校しているのを遷己は知っている。間違いなく瑞煕の靴だ、と教師に告げようと顔を上げた先にもう一足、誰かの靴が仕舞ってあるのが見えた。
「先生、あの靴は誰の?」
「あぁ、ついさっきもう一人生徒が戻らないと連絡を受けまして。瑞煕さんのクラスメイトなので、おそらく一緒にグラウンドを使用していたと思うんですが・・・。」
教師の声が不安気に曇る。電灯で照らされた男物の靴に、遷己も顔をしかめた。
瑞煕とクラスメイトの男が、二人揃って学校のどこかに残っている・・・?焦りと嫌な予感で胸がざわつく。一分一秒でも早く、瑞煕を助け出さなければ。遷己は更衣室を飛び出し、辺りを注意深く見渡した。教師も遷己の後ろから懐中電灯で辺りを照らす。
更衣室から階段を降りると、だだっ広いグラウンドとテニスコートに出るようだ。当時の瑞煕の足取りを追うように、グラウンドの先に視線を向ける。
端の方にあるのは体育倉庫だろう。しかし、使われていないはずの倉庫の窓から室内の電灯と思われる光が漏れていた。遷己の身体に悪寒が走る。
「先生、あれ!」
遷己の指差す方を見やり、教師も状況が飲み込めたようだ。二人顔を見合わせると、階段を駆け下り倉庫めがけて走りだした。

倉庫に閉じ込められてから、どれだけの時が流れたのか分からない。
寄り添いあって暖をとっていた瑞煕と閨登の体力もそろそろ限界だった。手足が凍えて痛みが走る。弱弱しく吐く息は白く曇り、呼吸するたびに頭がじんじんと霞んだ。
「・・・河拿さん、大丈夫?」
本日何度目かの問いに瑞煕は顔を上げ、小さくうなずく。しかし、その表情は辛そうだ。
完全なる静寂に包まれた倉庫内は、定期的に閨登が瑞煕に声をかける以外に何の物音もしない。そして、何度目かの静寂が訪れようとしていた矢先、耳が痛くなるような静けさの奥から微かに足音が聞こえてきた。その足音は、明らかに倉庫へ向かっているようだ。瑞煕と閨登が顔を見合わせる。
次の瞬間、倉庫の扉が激しく音を立てた。
「鴕久地!河拿!無事か!?」
「瑞煕!大丈夫か!」
扉を叩く音と同時に、自分たちの名前を呼ぶ声が聞こえる。瑞煕と閨登の顔に笑顔が戻った。
ふらつく足で立ち上がり、閨登が声を上げる。
「先生!鴕久地です!河拿さんも無事です!」
「よし!今開けるから待ってろ!」
ガチャガチャと扉の鍵が外される音がする。瑞煕の手を掴み、ゆっくりと立ち上がらせる。ふらつく瑞煕の身体を支えて扉の前まで進むと、倉庫の扉ががたつきながらも開かれた。心配そうな顔の教師と遷己が倉庫の中へと飛び込んでくる。
「瑞煕!」
遷己が、閨登の肩に身体を預けている瑞煕をしっかりと抱きとめる。安堵感から、全身の力が抜けて膝から崩れ落ちそうになった閨登の身体を男性教師が受け止めた。
「鴕久地、大丈夫か?河拿さん、とりあえず二人を保健室へ!」
その言葉に遷己もうなずき、すっかり冷たくなった妹の身体を支えて教師の後に続いた。

2.

暖められた保健室で毛布を借り、瑞煕と閨登はようやく休息を得ることができた。冷え切った身体が徐々に感覚を取り戻してゆく。ストーブを取り囲むように4人座り、教師が閨登に事の発端を尋ねた。
教師の質問にひとつひとつ答えつつ、閨登が一部始終を話し終えると、その日は遅いということもあり解散となった。
更衣室から上着と制服、鞄などを回収して帰路につく。時刻は夜の9時半になろうとしている。底冷えするような寒さが温まった三人の身体を襲った。
「鴕久地って言ったっけ。瑞煕が二回もお世話になっちまったな。」
高校の門を抜けたところで、遷己が足を止める。頭をくしゃくしゃと撫でられ、瑞煕もぺこりと頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。河拿さんが励ましてくれたお陰で頑張れたんです。助けにきてくださってありがとうございます。」
閨登も深々と頭を下げる。まあな、と胸を張り、遷己が口を開いた。
「ところで、お前んちどこ?もう遅いし送ってくよ。」
「えっ!?いや、いいです。一人で帰れます。」
慌てた様子で閨登が首を振った。一歩、二歩と後ずさる閨登の背後に自転車で回り込み、逃がすまいとその肩に手をおいた遷己は満面の笑みを浮かべている。
「遠慮すんなって!夜の一人歩きは男の子でも危ないんだぞ。なっ!」
抗えないほどの笑顔に、閨登も観念したのか「はい・・・」と小さくうなずいた。よしよし、とその肩を二度、三度と叩く満足そうな遷己とは対照的に、閨登の顔は暗く沈んでいた。不思議そうに瑞煕が覗き込むと、困ったような笑顔を浮かべる。「行くぞー!」と元気な遷己の声を合図に、二人並んで歩きだした。
静かな夜道に、自転車のタイヤがカラカラと回る音が響く。人も車もすっかり通らなくなった道を、瑞煕を真ん中に挟むようにして三人並んで歩く。
先程から遷己は他愛もない話や質問を閨登に投げかけ、会話はほぼ途切れることなく続いている。普段、まったく接点のない二人が楽しげに話している光景を、瑞煕はくすぐったいような不思議な気持ちで見つめていた。
普段、バス通学をしている閨登の家は高校から大分離れたところにあるらしい。寒空の下を四十分ほど歩き続け、ようやく家に辿りついた頃には夜の10時をとっくに過ぎていた。
塀に囲まれた二階建てのその家は、細部まで手入れが行き届いており、脇から見える庭もそれなりの広さがあるようだ。敷地の広さでは河拿研究所に遠く及ばないが、荒れ放題の研究所と比べこの一軒家は随分と立派に見える。玄関の扉の前で、閨登は二人に向き直った。
「ここです。送っていただいてありがとうございました。」
「いえいえどういたしまして。それにしてもお前んちすっげーなぁ。金持ちなのか?」
普段荒れ果てた建物ばかり見ている兄妹が、目を見開いて呆然としていた。慌てて閨登が首を横に振る。
「そんなことないです!普通の家ですよ!」
「えーそうか?少なくとも俺達の家よりかは立派だけどなぁ。」
瑞煕もこくこくと頷く。もう一度、閨登が否定の言葉を口にしようとした瞬間、その背後でガチャリ、と音を立て扉が開いた。続いて聞こえてきた声に、閨登の顔が強張る。

「閨登?帰ったの?」
ひやりとした冷たい声の持ち主は、扉の中から現れた中年の女性だった。上品そうな身なりに、化粧や髪もきちんと纏めているため幾分か若い印象を受ける。今まで見せたことのない暗い表情を浮かべて、閨登がゆっくりと声のした方を振り返る。若干ヒステリックな女性の声がその頭上にふりかかった。
「こんな時間まで、どこで何をしていたの!?」
「・・・すみません・・・。」
力なく閨登がうな垂れる。その様子を見ていた遷己が、閨登を庇うように押しやり前に出た。
「ちょっと、そんな言い方ないだろ!こいつがどんな大変な目にあってたのか知らないのかよ?」
「遷己さん!」
慌てて閨登がなだめようとするも、続いて口を開いた女性にその先を遮られた。
「何ですかあなた達は!?人の家に事に口を挟まないでちょうだい!」
「俺達はこいつの友達だよ。そんな頭ごなしに怒る前にちゃんとこいつの話聞いてやってもいいだろ!」
「友達!?あなたこんな遅い時間まで友達と遊び歩いてたっていうの?」
女性の怒りの矛先が再び閨登に向いた。「違…」と言いかけ、閨登は言葉を飲み込み女性から目を逸らす。大きな溜息をつき、女性が続けた。
「・・・とりあえず、中に入りなさい。」
そう言い放ち、閨登の返事も待たずに扉は大きな音を立てて閉まった。張り詰めた糸が切れたように、閨登は小さく息を吐く。依然納得がいかない様子の遷己が声を荒げた。
「鴕久地、何で言い返さないんだよ!自分の親だろ?」
「・・・ああなってしまったら、大人しく怒られてた方が楽に済むんですよ。」
諦めたような笑顔を浮かべ、閨登は二人に向き直った。ありがとうございました、と頭を下げて扉の向こうへ消えてゆく。閨登が今まで他人を家に寄せ付けなかった理由が、瑞煕には少し分かったような気がした。

帰り道、遷己は先ほどよりも口数少なく自転車を押していた。二人の脳裏には同じ光景が焼きついたままだ。
「あいつも色々大変なんだな・・・。」
そう遷己が漏らすと、瑞煕も下を向いたまま小さくうなずく。学校ではいつも明るい笑顔を浮かべている閨登の、あんな暗く沈んだ表情に瑞煕はただ困惑していた。
二人の間に流れた沈黙を破ったのは、けたたましく鳴りだした遷己の携帯電話だった。気だるそうに携帯電話を取り出し、ディスプレイに表示された名前を見て遷己は足を止めた。不思議そうに首を傾げる瑞煕に携帯電話を見せると、彼女も同様に目を見開いた。
「しまった、連絡するの忘れてたな。」
ばつの悪そうな笑顔を浮かべ、遷己が携帯の通話ボタンを押す。耳に当てる前に電話の向こうから心配そうな祷葵の声が聞こえてきた。
『遷己か!?大丈夫なのか?瑞煕は?』
「祷葵ごめん!連絡するのすっかり忘れてた。瑞煕は無事だぜ。今、瑞煕の友達を家に送って行ったとこ。もうそろそろ研究所に着くよ。」
まくしたてるように言葉を続ける祷葵を安心させるように明るく言う。電話の向こうから、力の抜けた祷葵の溜息と何かが倒れるような物音が聞こえる。大方松葉杖でも落としたのだろう、棚にもたれかかっている祷葵の姿が容易に想像できた。
『・・・もう少しで捜索願いを出すところだったぞ・・・。』
「大袈裟だなぁ祷葵は。とにかく、細かい事情は研究所着いたら話すよ。」
『あぁ、わかった。気をつけて帰れよ。』
その言葉を最後に電話は切れた。遷己も携帯電話を閉じ、瑞煕に向き直る。
「祷葵が寂しくて死にそうらしい。瑞煕、急いで帰るぞ。後ろに乗れ。」
そう言って自転車にまたがり、後ろをぽんぽんと叩いた。くすくすと笑いながら、瑞煕も自転車の後ろに腰かける。

二人を乗せた自転車は夜風を切り、やがて月明かりに照らされて怪しげに光る山の中へと消えてゆく。頬を撫でるピリピリとした痛みが、冬の訪れを感じさせた。

第6話 宵月

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