1.
吸い込まれるような青い色が空全体に広がっている。
その色に良く映えた白いコンクリートが広大な敷地にそびえ立ち、ガラス張りの渡り廊下は空の青を反射して見事な調和を醸し出していた。囲まれた豊かな緑や行き交う活気溢れた人々を含め、その光景はまるでひとつの芸術作品のようである。
ここは白志木大学。専門学科の数や設備、敷地、どれをとっても国内有数の名門大学として知られている。
夢を持った若者たちで溢れかえる大学の、とある講義室―・・・
・・・ではなく、その食堂の厨房に、その姿はあった。
短い黒髪は三角巾に収められ、可愛らしい刺繍の入ったエプロンをまとっておきながらその表情は真剣そのものである。醤油の入ったビン片手に鍋とにらめっこすること数分間、青年の手元からは食欲をくすぐる良い匂いが立ち込めはじめた。少量をすくいあげ口に含むと、満足そうな顔で後ろにいる中年の女性に笑いかける。
「おいしい!これ、めっちゃおいしく出来ましたよ仲野さん!」
「どれどれ・・・。あら、ホントにおいしい!初めてにしては上出来よ。河拿くん、今まで料理したことないとか嘘でしょ?」
仲野、と呼ばれた女性も満足そうに微笑む。相槌をうちながら、照れたように遷己も笑った。
瑞煕が高校に通い始めてからというもの、遷己は河拿研究所で暇を持て余すことが多くなった。祷葵の手伝いをしようにも遷己は細かい作業には向いていないらしく、逆に邪魔をしては祷葵に研究室を追い出される毎日。彼なりに暇を解消する方法を考えた結果、この大学の食堂でバイトすることにしたのである。高校生活を謳歌している瑞煕に便乗し、自分も大学生気分をわずかでも味わいたいというのも一つの理由だ。
面接を通りいざ初出勤してみると周りは中年のおばちゃんばかり。またたく間に遷己はおばちゃん達の息子ポジションにおさまり、ちやほやと可愛がられている。
まぁこういうのも悪くはないか、と遷己が前向きに考えはじめたころ、一人の青年が食堂に元気よく飛び込んできた。
「こーんにちはーっ!おばちゃん、腹へったー!」
声の主の方を見やる。太陽のような赤い髪を首の後ろでひとつにまとめ、その顔は人懐こい笑顔を浮かべていた。見たところ、遷己と歳はそう変わらないようだ。
食堂にはすでに数名の人影があったが、誰も赤髪の青年には見向きもしない。仲野達もにこにこと対応しているところを見ると、この青年の派手な登場は日常茶飯事のようだった。
「いらっしゃいアキラちゃん。今日は何にするんだい?」
「今日はがっつりいきたいからカツ丼定食で!大盛りね!」
はいよ、と返事して仲野が準備にとりかかる。その後ろ姿を見送っていた青年とふと目が合った。
物珍しそうに眺めてくる薄茶色の瞳に、遷己も何も言えずただ無言で視線を返した。何か言おうと口を開いた瞬間、仲野の元気な声に遮られる。
「はいっ、カツ丼大盛りお待ち!あぁ、あとこの子は今日から入ったバイトの河拿くんだよ。二十歳って言ってたから、確かアキラちゃんと同い年じゃないのかい?」
「河拿・・・?」
盆を受け取りながら、アキラと呼ばれた青年は再度視線を遷己に戻した。にっ、と笑みを浮かべてみるものの大分不自然な笑顔になったに違いない。
腹をすかせた学生たちが次から次へと押し寄せ、結局一言も交わすことのないまま青年は遷己の前から立ち去った。しばらくその後ろ姿を見送っていたが、やがて忙しくなった厨房の対応に追われる。
昼の慌ただしさもひと段落つき、食堂を見渡すとそこにはもう赤髪の青年の姿はなかった。
日も落ち始めた午後五時。遷己の次なる目的地は小さな居酒屋だった。
店長とあいさつを交わし、黒いエプロンにタオルを巻いて開店前の厨房に入る。大学の厨房とはうってかわり、若い従業員たちがせっせと料理の仕込みをしていた。
新入りのあいさつを、と口を開きかけたとき、一人の青年が目に飛び込んできた。出しかけた声を飲み込みその青年を目で追う。その様子を見ていた店長も訝しげに遷己の視線をたどった。
鮮やかな赤い髪をうしろでひとつに束ね、ひときわ元気に動きまわっているその青年は、二人の視線に気付いたのかふと手を止めて遷己と目を合わせた。
「「・・・あーっ!!」」
ほぼ同時に声を上げる。そんな二人を交互に見据え、店長が口を開いた。
「なんだ、アキラ。知り合いだったのか?」
「いや、今日はじめて会ったんすよ。大学の食堂で。なっ?」
そう言って遷己に笑いかける。なっ、と返し店長を挟んで笑顔を交わした。
すこし考えるそぶりをしたのち、ほっとした笑みを浮かべて店長が遷己と青年の肩を抱きよせた。その顔は意地の悪い笑みに満ちている。
「なーんだ、なら丁度いいな。アキラ、河拿の教育係決定な。よろしく!」
「はっ!?・・・え、俺が!?」
ぎょっとして目を白黒させる青年の背中を力強く叩き、店長は軽く手を振りながら厨房の奥へと消えていく。呆然と立ち尽くしている青年に満面の笑みで声をかけた。
「はじめまして、河拿遷己です。よろしく、センパイ!」
仕方ない、と腹をくくったのか、振り返った青年の顔もまた、笑みが浮かんでいた。
「よろしく。俺は舞田暁良。同い年なんだろ?気をつかわなくていいよ。」
簡単な自己紹介を済ませ、暁良について行って仕事の手順を習う。開店前の仕込みで積み上げられた洗いものを、二人並んでひたすら片づけて行く。
「河拿って、食堂とここのバイトかけもちすんの?大変じゃね?」
「んー別に・・・。バイト以外特にすることもないしなぁ。」
「フリーターか、良いなぁ。何か夢とかあんの?」
「夢・・・」
言葉につまり、遷己は手を止めた。こんな真っ直ぐな質問に、ただ暇だったからなんて答えられない。
夢なんて考えたこともなかった。古斑との戦いが終わったあとのことなんて考えたこともなかった。
戦いが終わっても、このまま河拿研究所の世話になっていてもいいのだろうか。おそらく、祷葵は良いと言うだろう。
しかし、祷葵のような頭脳も瑞煕のような器用さもない自分に、研究所で務める意味などあるのだろうか。
深刻な顔で考え込んでいる遷己の目に、鮮やかな赤が飛び込んできた。
2.
「河拿?」
「え、あぁ、ごめん。思えば俺、夢ってないなぁと思って。」
「そうなのか?河拿、料理人とか向いてると思うんだけどな。」
暁良はきょとんとして言う。まるで遷己が料理人を目指すのは当たり前だと言うように。
なんで?と遷己が問うと、暁良はにっ、と人懐こい笑みを浮かべた。
「だって、今日のカツ丼定食の味噌汁、河拿が作ったんだろ?すっげー美味かったもん。絶対向いてるって!」
「料理人かぁ・・・」
確かにあの味噌汁は我ながら傑作だとは思う。しかし、自分に料理の才能があるなんて微塵も思わなかった。料理が出来たら、研究所での瑞煕や祷葵の負担も少しは減るのだろう。
料理人を目指すのも悪くないな、と遷己が単純な思考を巡らせていると暁良が急に真剣な表情で口を開いた。
「・・・なぁ、話は変わるけどさ、河拿って兄貴とかいたりする?」
「兄貴?」
目に入れても痛くないほど可愛い妹はいる。しかし、兄となると言葉につまる。
祷葵は兄と呼んでいい存在なのか。もし祷葵のことを指しているのなら、なぜ暁良が祷葵のことを知っているのか?
本日何回目かの脳の酷使をしていると、厨房の奥から声が上がった。
「おーい、舞田!河拿!こっちも手伝ってくれ!」
「はーい!!悪いな変なこと聞いて。行こうぜ。」
暁良にうながされ、話はそこで終わった。しかし、先ほどの暁良の質問は、いつまでも消えることなく遷己の脳裏に渦巻いていた。
バイトを終えた遷己が研究所に戻ったのは午後9時を過ぎた頃だった。
無駄に広い玄関を通り抜け、白い廊下を小走りで駆け抜ける。パタパタとスリッパの跳ねる音が静かにこだまする。住み慣れた我が家とはいえ、この静けさがどうにも遷己は苦手だった。やがてたどり着いた従業員食堂からは明るい光が漏れている。
「ただいまーっ」
廊下の恐怖をぬぐい去るように明るく食堂に飛び込んだ。コーヒーの良い香りが鼻をくすぐる。向かいあってテーブルについていた祷葵と瑞煕は。遷己の声に笑顔で視線を向けた。
「お帰り遷己。こんな時間までお疲れだったな。」
まあなー。と溜息まじりに呟き、祷葵の隣に腰かける。すかさず、コーヒーの入ったマグカップが目の前に置かれた。礼を言うと、瑞煕はにこっと笑い、自分の席に戻った。
「どうだったんだ?初出勤の感想は。」
「もーバッチリだっての!俺の作った味噌汁、大好評だったんだぞ。」
ぐっ、と両手でガッツポーズを作ってみせる。ほう、と感心したように祷葵が目を見開く。その正面では瑞煕が満面の笑みでパチパチと小さく拍手を送っている。その光景に遷己の頬もゆるんだ。
頑張ったな、えらいぞと頭をくしゃくしゃになでる祷葵に照れ笑いを返す。こうしてみると、祷葵は兄のようであり父のようでもあった。暁良に投げかけられた質問が脳裏に甦る。意を決して、遷己は口を開いた。
「・・・そういえばさ、祷葵。舞田暁良ってやつ知ってる?」
「舞田?」
祷葵の動きが止まった。不思議そうな顔をして瑞煕が首を傾げる。先を促すように遷己が続けた。
「今日、バイト先で知り合ったんだ。俺と同い年の大学生で、いきなり兄貴いる?って聞かれてさ。多分祷葵のことだよな?」
「・・・そうだな。以前ここに舞田朝奈という女性が勤めていた。年齢からして、おそらく彼女の弟だろう。」
「へぇー。彼女?彼女だったの?」
ニヤニヤと笑いながら遷己が返す。次の瞬間、祷葵が手にしていたマグカップで遷己の額を小突いた。ごつん、と気持ちのいい音が食堂に響く。
「小学生みたいな揚げ足のとり方をするんじゃない。」
「いってーな。良いじゃん教えてくれたって。ケチ。」
うらめしそうに口を尖らす遷己はさながら本物の小学生のようだった。横から遷己につんつん突かれながらも祷葵はコーヒーを啜る手を止めようとはしない。
仲の良い兄弟がじゃれているようなその光景を、瑞煕も微笑ましく見つめていた。
団欒の時間を終わりを告げ、時刻は深夜11時をまわろうとしている。
先程までの賑やかさが嘘のように研究所内は静まり返っている。河拿研究所の所長室もまたその例外ではなかった。
様々な資料が積み上げられた机上に黒いデスクトップパソコンがひとつ。壁にはコートや白衣が無造作にかけられ、床に散らばったいくつもの大きな鞄は毎朝祷葵が松葉杖をひっかけて転ぶ原因となっている。
白い棚の上には1枚の写真立てがひっそりと飾られている。その写真の前で祷葵は足をとめた。
真新しい、白い建物の前に複数人の男女が集まっている。中央には眼鏡をかけた髪の短い男性が笑顔を浮かべ、その隣には紅色の髪の女性がピースサインを作って笑っている。
眼鏡の男性の後ろには、黒髪で切れ長の瞳をもった若い男が、紅色の女性に負けないほどの笑顔とピースサインで自己主張をしていた。その隣には、大人しそうな若い女性が控えめに微笑んでいる。
中央の4人の周りにも、研究所の従業員と思われる男女が思い思いのポーズで写真に写っていた。懐かしそうに目を細め、祷葵は写真立てを手にとった。
「朝奈・・・」
呟いて、写真立てを持つ手に力を込める。眉をひそめたその表情は悲しみに歪んでいた。
朝奈の弟である暁良と遷己が出会うとは不思議な巡り合わせもあるものだ。
「あれからもう4年か・・・。」
写真立てを棚の上に戻し、溜息を吐く。白衣を脱いで近くの椅子の背もたれにかける。
その瞬間、白衣のポケットに入れていた携帯電話がけたたましく鳴りだした。
画面に表示された名前を見て息をのむ。懐かしい名前だった。ふ、と祷葵の顔に自然と笑みがこぼれる。通話ボタンを押し、棚にもたれかかりながらゆっくりと電話を耳にあてた。
「久しぶりだな。」
『久しぶりだね。』
受話器の向こうから聞きなれた声がする。その日、穏やかな談笑は夜遅くまで続いていた。