昼過ぎから降り出した雨は徐々に勢いを増し、夕刻の空をより一層暗くしていた。
地響きのような低い雨音に支配された小さな街には、こんな天気だというのに多くの人々で溢れかえっている。買い物をする人、学校や会社から帰路につく人。水しぶきを上げて行き交う車。

何一つ変わらない静かな光景に、突然巨大な黒い影が落ちた。

鳥にしては大きすぎるし、飛行機にしてはあまりにも不自然なその影を、人々は生活を放棄して呆然と見上げる。ざわざわと上がる声が更に不安を掻き立てた。

「なに……あれ……」

まだあどけなさの残る一人の少年がぽつりと呟く。ふたつの黒い瞳はめいっぱいに見開かれ、空を滑る影を凝視している。
黒い翼をはためかせ、長い尻尾をなびかせながら、その影は街の上空から姿を消した。



賑やかな街から離れた山の中にそれはあった。人の目を避けるようにしてひっそりと、白い大きなコンクリート造りの建物が建っている。
「河拿研究所」と記された銀のプレート。門扉の奥に続くアスファルトの駐車場には色とりどりの乗用車。身を隠すような立地にあるこの建物にも、確かな活気があることが窺えた。
雨音にまぎれた微かなエンジン音が白い建物へと近付く。やがて、水しぶきをあげながら一台の黒い車がその門をくぐった。

車の中から現れたのは一人の若い男だった。白衣の上に黒いコートを羽織り、短い黒髪に眼鏡をかけたその顔は女性のように穏やかだ。
黒いアタッシュケースを車から引きずりだし小走りで建物へと向かう。駐車場からの短い距離でも、空から降り注ぐ冷たい雫がその肩を濡らすのには十分だった。
大きなガラス扉を押しあけると、赤いレンガ調の床にずらりと並んだ下駄箱が男を迎え入れる。
スリッパが廊下を蹴る軽やかな音に、男は濡れたコートを脱ぎながら玄関の奥へ視線を向けた。間もなく明るい紅色の髪を揺らしながら一人の女性が姿を現す。
形の良い眉をひそめ、彼女は心配そうな表情でその赤く艶やかな唇を開いた。

「おかえり祷葵。……様子、どうだった?」

一段と暗くなった空に紛れ、黒い翼が風を切る。
ギラリと光る赤い瞳が何かを見つけたように見開かれた。鳥とも獣ともつかぬ異様な鳴き声をあげ、黒影は山奥の白い建物めがけて急降下する。

建物の中、蛍光灯の光を反射して白く光る廊下を一組の男女が並んで歩いていた。
その男の下に一人の青年が駆け寄った、その瞬間。

耳をつんざくような咆哮が響き渡った。

***

――数年後。深い霧に覆われ、その建物は怪しげな雰囲気を放っていた。

今もなお山の中に身を隠すように、しかし確かな存在感を持ってそびえ立つ白いコンクリートの壁。
河拿研究所の一室で男は一人厚い雲に覆われた灰色の空を見ていた。わずかに開けられた窓から湿った風が吹き込む。
短く整えられていた髪は、今や背中に流れるほどに長く伸びている。女性のような穏やかな顔にも確かな大人の貫録があった。
湿った風が勢いよく暗い部屋に吹き込んだ。窓が揺れ、机の上に積み上げられた書類が宙を舞う。

「そろそろ、か……」

白衣をひるがえして部屋を後にする。男が扉を閉めるとやがて冷たい雨が降り始めた。

廊下を渡り、無機質な扉を開ける。眼前に広がる薄暗い部屋には様々な機械や書類、薬品の器具などが所狭しと並んでいた。
中央に並べられた無機質な硬いベッドには、水色の透き通る髪を持つ少女が横たわっていた。その隣には、短い黒髪の青年が同じようにベッドに身を預けている。
機械が作動する音と、本格的に降り出した雨音だけが薄暗い部屋の中で響いていた。
激しい雷鳴が静寂を破り、稲光が二度、三度と部屋を照らす。
その光に照らされ、眩しそうに目を開いたのは黒髪の青年の方だった。瞬きを繰り返し、ぼんやりとした瞳で宙を見つめている。
一瞬の稲光。眩しいほどの光に映し出されたのは眼鏡をかけた男の顔だった。青年の顔を覗き込んで柔和な笑みを浮かべている。

「目が覚めたかい」
「――っ!うわあぁっ!」

派手な音を立てて青年がベッドから転がり落ちた。傍にあった器具を蹴散らかし、書類がバラバラに宙を舞う。怯えた手で床に転がったメスを掴むと男に向け、立ち上がることもできないまま震えた声を吐き出した。

「お、お前は・・・誰だ!?ここは…?」

全身をガタガタを震わせている青年の後ろで、ギシッと何かが軋む音がした。小さな悲鳴を上げて青年が振り返り、男もまた音がした方を見やった。
水色の長い髪が、サラサラと闇の中で光っている。ガラス玉のような大きな瞳を見開いて少女はゆっくりと周りを見回していた。そして床に座り込んだ青年と、その傍に立っている男を見つけると小首を傾げてみせた。

「やぁ、おはよう。これで二人とも目が覚めたみたいだな。」

男は、少女と青年の顔を交互に見ると、二人に背を向けて歩き出した。慌てて青年が声をかける。

「おい、ちょっと待てよ!どこに・・・」
「聞きたいことはいっぱいあるだろう。私も君たちに話さなくてはいけないことがいっぱいある。まぁ、お茶でも淹れてゆっくり話そうじゃないか。ついておいで。」

その言葉に、少女と青年は顔を見合わせた。先に動いたのは少女の方だった。何も言わず、黙って男の後ろにつく。呼び止めようとした青年も、やがて渋々と少女に続いた。

***

松葉杖をつきながらゆっくり廊下を進む男に合わせて、少女と青年もゆっくりその後を歩く。不規則な足音が不気味なほどに静かな建物内に響いた。
廊下の両端には多くの扉があり、それぞれ異なった設備が置かれているようだ。一見清潔そうな白い内装にはうっすら埃がかぶり、奇妙な雰囲気を醸し出している。
誰も一言もしゃべらないまま廊下を歩き続け、ようやく目的の部屋へついたらしい男が歩みを止めて二人に向き直った。

「さぁ、ここだ。入ってくれ。」

そう言って開かれた扉の先には応接間らしい空間が広がっていた。部屋の中心にはソファと背の低いガラステーブルが一つ。大きなガラス窓からは激しく降りつける雨と稲光が見える。
男はソファに二人を座らせ、お茶の用意をしている。手入れが行き届いていない建物内だったが、ここは綺麗に掃除されているらしい。
男が三人前のお茶を淹れ終わると、すかさず少女が男からお茶を受け取ってテーブルに並べる。すまないね、と短く礼を言い、男も二人と向かい合う形でソファに座った。

「早速本題に入ろうか。私は河拿祷葵。この河拿研究所の所長を務めているよ。・・・とは言っても、今は研究員は誰もいないのだけれどね。」

そう言い、祷葵は笑って肩をすくめた。そして未だ険しい顔をしている青年と、無表情の少女の顔を見回す。

「君たち、まだ自分の名前もわからないだろう。君たちの名前は遷己と瑞煕。・・・実は、訳あってちょっと君たちに協力を頼みたいんだ。」

遷己、と呼ばれた黒い髪の青年は訝しげに祷葵の顔を睨んだ。瑞煕と呼ばれた少女は眉をひそめて俯いている。思い思いの反応に、祷葵の胸は少し痛んだ。

「協力・・・って、何をすればいいんだよ?」

しびれを切らした遷己の問いに、祷葵は腕を組んで目を閉じ、やがて言いにくそうに、言葉を探すように重々しく口を開いた。

「実は―・・・この研究所は数年前から隣町の古斑研究所にずっと狙われていてね。奴の狙いは私の研究内容らしいのだが・・・。もう、私ひとりでは古斑の襲撃に耐えられなくなってしまった。しかし、私の研究内容が古斑の手に渡ったらとんでもないことになる。

そこで、君たちには古斑の手から私の研究内容を守ってほしい。身勝手なお願いだが、頼めるか?」
祷葵は深刻な面持ちで遷己と瑞煕の目を見た。瑞煕は黙って俯き、遷己は先ほどの祷葵の話を反芻しているのか、腕を組んで考え込んでいる。

「襲撃から守るっつったって・・・それって俺達、その古斑ってやつと戦うってこと?」

祷葵は静かにうなずく。表情を変えず、遷己が続けざまに聞いた。

「・・・どうやって?」
「遷己、瑞煕。自分の手首に白いリングが付いているのがわかるか?それを見てくれ。」

言われて二人とも自分の手首を見た。なるほど遷己は左手首、瑞煕は右手首にそれぞれ白いリングのようなものが付いている。
それは手首と一体化しているかのごとく、引っ張っても取れそうにはなかった。

「君たちには、ある特殊な能力が付け加えられている。そのリングに触れて、神経を集中させてみてくれ。」

遷己と瑞煕は顔を見合わせ、そして同時に自分のリングに触れた。手首をじっと見つめ、神経を集中させる。間もなく、二人の腕に変化が起こり始めた。

「!!」

少女が驚いて立ち上がる。遷己もまた、自分の腕に起こった変化を理解しきれないでいた。
指が、腕が、その形を失っていく。細胞の一つ一つがバラバラに動いて新しい形を作ってゆく。それはあまりにもおぞましい光景だった。全身を駆け巡る恐怖と混乱。二人はただ、目を丸くして原型を失った己の腕を見つめていた。

「・・・なんだよ、これ・・・」

細胞の動きはもう止まったらしい。腕が変形する気配ももう無い。その現実離れした光景に、遷己と瑞煕はただただ混乱していた。
もともと腕があったはずの遷己の左腕は黒光りする長い銃に。そして瑞煕の右腕はすらりと伸びた白い大きな剣に、それぞれ姿を変えていた。
自分の左腕をまじまじと見つめる遷己の隣で、ひゅっと風を切る音がした。驚いて振り向くと、瑞煕が大剣の切っ先を祷葵の喉元に突きつけている。小柄な彼女には不釣り合いなほどの大きな剣。小さな唇とぎゅっと噛みしめ、祷葵を睨む瑞煕の瞳には大粒の涙が滲んでいた。
祷葵は両手を上げ、降参のポーズをとっている。苦笑しながら後ずさり、瑞煕から少しの距離をとり、

次の瞬間、懐から拳銃を取り出し、瑞煕に向かって一発、放った。
遷己が息をのむ。瑞煕もまた、目を大きく見開いて硬直していた。祷葵が放った弾は瑞煕の横を通り、背後の大きな窓ガラスを割った。同時に鳥のような獣のような、不快な雄叫びが上がる。
驚いて二人が振り返ると、そこには黒い体に黒い翼を生やし、赤い瞳に鋭い爪をもつ異様な生物が銃弾を受けもがき苦しんでいた。窓ガラスをめちゃくちゃに割り、床に伏せて暴れまわっている。

「瑞煕、伏せろ!」

後ろから祷葵が叫んだ。言われた通りにしゃがむと、その上を銃弾が一発、二発と通り過ぎる。異様な生物は短い悲鳴を上げると床の上で痙攣し、やがてピクリとも動かなくなった。
恐る恐る瑞煕が顔を上げる。目を見開いたまま息絶えている生物を見て怯えた目で振り返った。
拳銃を下し、俯いた祷葵の表情は眼鏡に隠れて読み取れない。
あまりの出来事に呆然としていた遷己が、震える声を絞り出した。

「・・・い、今のは?」
「あれは、古斑研究所のペットだ。古斑はいつもあいつらを使ってこの研究所に攻撃を仕掛けてくる。この研究所だけじゃない、奴らは街も襲う。このままでは街が古斑の手によってめちゃくちゃにされてしまう。・・・君たちには、あれと戦ってほしい。」
「そんな!・・・いきなり、腕をこんなんにされて、それであんな訳のわからないのと戦え、だなんて、そんなのって・・・。」

遷己の声は消え入りそうだった。冷たい光を放つ無機質な左腕をさすり、唇をかみしめる。
本当はわかっているのだ。ここで戦わない、という選択肢はないことを。戦うしかないことを。
しかし、頭が、理性が拒絶する。ぐるぐると思考を巡らせ、遷己は祷葵を見やった。
申し訳なさそうに目を伏せる祷葵の瞳に光るものがあった。それは一筋の跡を残して頬を伝う。
瑞煕がキョロキョロと辺りを見渡し、席を立つと乾いたタオルを祷葵に渡す。祷葵は一瞬驚いた顔を見せたが、やがて瑞煕からタオルを受け取ると微笑んで見せた。それを見て瑞煕も微笑む。
どうやら瑞煕の心は決まっているようだ。一人取り残された遷己は小さくため息をつくと、がしがしと頭をかいた。

「・・・まったく、泣き落としとかヒキョーだろ。俺もやるよ。・・・そのために俺ら、造られたっぽいし。」

その言葉に祷葵は一瞬言葉を詰まらせ、目を泳がせながら頬を掻いた。

「・・・あー・・・、・・・気づいてたか。」
「普通気づくだろ、あほ。・・・それと・・・。」

そこで言葉を切って、遷己は黒光りする左腕を見つめた。

「こんな訳のわからんことされて、お前のことすっげーむかつくはずなのに。・・・何でだろうな、お前には何か恩があるような、そんな気がするんだよ。変だよな。今日初めて会ったばっかなのに。」

瑞煕もにっこり笑ってうなずく。どうやら瑞煕も、祷葵に恩を感じているらしかった。
祷葵は驚いた表情で遷己と瑞煕の顔を交互に見つめ、やがて照れたように微笑んだ。

「・・・そうか。すまんな、ありがとう遷己。瑞煕。礼を言うよ。」

遷己と瑞煕も顔を見合わせ、満面の笑みを浮かべた。
割れた窓ガラスから吹き込む雨風が、少し和らいでいた。雷が山の遠くで鳴っている。
遷己は満面の笑みのまま祷葵に向き直り、そして左腕を掲げて見せた。

「・・・それで、この腕、どうやったら元にもどんの?」

第1話 めざめ

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